「シンボリクリスエス」の版間の差分

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==== 宝塚記念 ====
有馬記念優勝後は、シンボリ牧場で放牧<ref name="優駿-2003-7-89" />。藤沢はこの年、[[宝塚記念]]、天皇賞(秋)、ジャパンカップ、有馬記念の4戦を予定する。春夏の出走が宝塚記念のみなのは、距離の適性のない天皇賞(春)参戦を見送ったことと、秋に疲れを残さないようにするためであった<ref name="優駿-2019-6-7883" />。00年代初頭にこのような前哨戦を使わないぶっつけ本番でのG1出走は特異で、決してポジティブな印象を持たれない臨戦過程であり、その是非は時に議論の対象にもなった。<ref>『優駿』2019年6月号 82頁</ref>藤沢はこのようなローテーションに関して自著の中で「最後に有馬記念まで行きたいと思えば、もう春のうちに、秋口の使い出しからのローテーションを考える。有馬記念の前に、天皇賞もジャパンカップも勝ちたい。本当は毎日王冠も勝ちたいけど、そこから始動すると1回余計じゃないか、と考える。とにかく、秋に天皇賞、ジャパンカップとGIを戦い、かつ、3つ目の有馬記念まである程度余力を残せるようなローテーションを考える」と述べている。<ref>G1の勝ち方 : サラブレッド金言108 175頁</ref>」と述懐している。シンボリ牧場での放牧と調整の間に馬体は成長しており、藤沢は「また一回り馬が大きく成長してきたみたいですね。3歳の夏から秋にかけての成長も凄かったけど、今回もまた一段と逞しくなっていますよ<ref name="優駿-2003-7-89" />」と述べている<ref name="優駿-2003-7-89" />。5月10日に帰厩<ref name="優駿-2003-7-89" />。5月28日には東京優駿に出走する[[ゼンノロブロイ]]、ゼンノジャンゴの最終追い切りに参加した<ref name="優駿-2003-7-89">優駿』2003年7月号 8-9頁</ref>。この追い切りでは絶好の動きを見せたが、藤沢調教師はシンボリクリスエスのローテーションを考え直すどころか「早く仕上がりすぎそうなので、少し緩めます」と話し、<ref>『優駿』2019年6月号 82頁</ref>宝塚記念に合わせて仕上げを行った。宝塚記念に挑む際の仕上げについて藤沢は「「仕上がりすぎている可能性はあっても仕上がっていなかったということはない!」と自信を持って送り出した」と述べている。<ref>勝つためにすべきこと 196頁</ref>
 
ファン投票は1位となる5万9817票を集めた<ref>『優駿』2003年7月号 7頁</ref>。6月29日の宝塚記念({{GI}})に[[ケント・デザーモ]]が騎乗し出走。春にクラシック二冠を果たした3歳の[[ネオユニヴァース]]、{{GI}}級6勝のアグネスデジタルなどが出走し「宝塚記念史上、最高のメンバー<ref name="優駿-2003-8-3641" />」(『優駿』編集部)とも呼ばれた中、単勝オッズ2.1倍の1番人気に推された<ref>{{Cite web|title=宝塚記念|url=https://db.netkeiba.com/race/200309030411/|website=db.netkeiba.com|accessdate=2021-12-16}}</ref>。スタートから中団の内側に位置<ref name="優駿-2003-8-3641" />。最終コーナーで抜け出し、外から位置を上げたタップダンスシチーとの競り合ったが、外から追い込む[[ヒシミラクル]]や[[ツルマルボーイ]]にかわされ、5着に敗れた<ref name="優駿-2003-8-3641">『優駿』2003年8月号 36-41頁</ref>。その後は、ファンタストクラブで夏休みを過ごす<ref>『優駿』2003年9月号 23頁</ref>。
 
藤沢は宝塚記念の敗因の取材に対して「宝塚記念の敗因は仕上がりではなく、厳しい流れで早めに先頭に立つ競馬が裏目に出た」と語っている。<ref>『優駿』2019年6月号 82頁</ref>」。また自著の中では宝塚記念では前年の有馬記念の最終直線のようにヨレてしまい、へササるだけでなく、立て直そうとするとへもフラフラに斜行てしまったことが原因あると書い述懐している<ref>勝つためにすべきこと 196頁</ref>
 
==== 天皇賞(秋) ====
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{{GI}}4勝目、スピードシンボリ、シンボリルドルフ、グラスワンダーに続く史上4頭目の有馬記念連覇となった<ref>『名馬を読む2』89頁</ref>。そのうえ'''史上初めてとなる天皇賞(秋)、有馬記念のダブル連覇'''を果たした<ref name="日刊スポーツ-有馬" />。また走破タイム2分30秒5は、1991年有馬記念で[[ダイユウサク]]が記録したレースレコードおよびコースレコードを0.1秒更新<ref name="優駿-2004-2-138139" />。加えて、2着リンカーンに9馬身差の優勝は、1967年の優勝[[カブトシロー]]、2着[[リュウファーロス|リュウフアーロス]]の6馬身を上回る有馬記念史上最大着差であり<ref name="優駿-2004-2-138139">『優駿』2004年2月号 138-139頁</ref>、タップダンスシチーが勝利した前出のジャパンカップと並び立つ'''{{GI}}競走史上最大着差記録'''となった<ref name="優駿-2004-2-3639" />。
 
このラストランの仕上げについて、調教師がこれまでにない量の調教を課したうえで参戦であったという噂が存在するが、藤沢は自著の中でその噂に対し彼(シンボリクリスエスに関する余談ですが、彼は3歳時の有馬記念で2着に半馬身つけた差を、4歳時では9馬身に広げました。'''「引退の決まっている最後の一戦なので藤澤が完膚なきまでに仕上げたなどと言われたりしましたが、それは大きな間違いです。'''種牡馬入りの決まっているお馬さんに対し下手に負荷をかけて壊してしまっては、馬主さんだけでなく競馬界全体に向ける顔がなくなります。つまり、'''最後の一戦で無理をさせないことはあっても、その逆はありえないわけです。'''」と述べている。<ref>勝つためにすべきこと 199-200頁</ref>。(カッコ内補足加筆者)」と述べている。
 
開催終了後の中山競馬場にて、引退式を開催<ref>『優駿』2004年2月号 77頁</ref><ref>{{Cite web|title=Sクリスエスが引退式/有馬記念|url=http://www.shikoku-np.co.jp/sports/general/20031228000200|website=四国新聞社|accessdate=2021-12-16}}</ref>。同日付で、JRAの競走馬登録を抹消された<ref name="シンボリクリスエス-抹消" />。この年のJRA賞では、全287票中220票を集めてJRA賞年度代表馬{{Efn|他に、[[スティルインラブ]]58票、[[ヒシミラクル]]6票、[[ネオユニヴァース]]2票、該当馬なし1票<ref name="優駿-2003年度-JRA賞" />。}}に、275票を集めて[[JRA賞最優秀4歳以上牡馬]]に選出された{{Efn|他に、[[ヒシミラクル]]12票<ref name="優駿-2003年度-JRA賞" />。}}<ref name="優駿-2003年度-JRA賞" />。2年連続となる年度代表馬受賞であった<ref name="優駿-2003年度-JRA賞" />。