「徐載弼」の版間の差分

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[[File:김규식 서재필 여운형.jpg|thumb|left|200px|左から、[[金奎植]]、徐載弼、[[呂運亨]](1947年)]]
[[File:1947_Reception_of_Seo_Jae-pil,_in_Seoul.jpg|thumb|left|200px|演説をする徐載弼、右端は[[趙炳玉]]]]
アメリカでは[[米西戦争]]に軍医として従軍した後、フィラデルフィア大学で解剖学の講座を担当する一方、市内で商店を経営して成功した。1910年朝鮮の日本による併合がなると、活動家をアメリカに呼び寄せ支援した。1919年3月1日、[[3・1独立運動]]をきっかけに、独立運動を再開、アメリカ国内に韓国人団体を結成して[[ロビー活動]]を積極的に行った。1919年4月14日から16日にかけては「韓人自由大会」を開催した。[[上海臨時政府]]の対米顧問に任命された後、親韓米人組織に尽力。1921年1月2日には[[ウォレン・ハーディング]]米大統領と会見し、朝鮮独立の後押しを要請した<ref>{{Cite web|title=今日の歴史(1月2日)(聯合ニュース)|url=https://news.yahoo.co.jp/articles/747a522ebe57dc4f2b0acdfe4da1d421c5a2c6fc|website=Yahoo!ニュース|accessdate=2022-01-01|language=ja}}</ref>
 
1947年、[[李承晩]]が建てた[[南朝鮮過渡政府]]が樹立されると、増長していた李承晩を牽制する人物を探していた[[在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁|アメリカ軍政庁]]は、徐載弼を軍政庁の最高顧問として招聘することを画策した。徐は最初はこれを固辞していたものの、[[呂運亨]]、[[李承晩]]らからも招請され、帰国した。しかし、次第に李と対立するようになり、[[金性洙]]、[[李光洙]]、[[趙炳玉]]との対談で「50年前も今も派閥争いは相変わらずだ」と嘆いたという。