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[[岐阜県]]出身。1920年([[大正]]9年)[[東京帝国大学]]文学部卒業。[[弘田龍太郎]]、田村寛貞に師事。
 
[[1923年]]([[大正]]12年)より[[立教大学大学院文学研究科・文学部|立教大学文学部]][[教授]]([[キリスト教]][[音楽史]])。同年、[[立教大学グリークラブ]]を創部し、初代部長に就任した。また、[[東京大学大学院人文社会系研究科・文学部|東京大学文学部]]で非常勤講師を務め
 
戦後、[[日本音楽学会]]の設立に尽力した。一方、[[1960年]](昭和35年)立教大学[[メサイア (ヘンデル)|メサイア]]演奏会を始めることを提案し、専任講師の[[皆川達夫]]と共に準備委員会を発足させる。1961年([[昭和]]36年)3月、立教大学を定年退職。同年4月、[[国立音楽大学]]教授。また、[[社会福祉法人]][[滝乃川学園]]第8代理事長を務めた。
 
没後、優れた音楽・美術研究者を表彰する「辻荘一・三浦アンナ記念学術賞」が創設され、[[1988年]]に最初の辻荘一賞を、[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|バッハ]]研究者の磯山雅(国立音楽大学助教授)が受賞。選考委員長は[[皆川達夫]]が務めた。なお、[[勲四等]][[旭日小綬章]]受章。[[1980年]](昭和55年)には[[キリスト教功労者]]の表彰を受ける。