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柱国の上位にあたる{{読み仮名|'''上柱国'''|じょうちゅうこく}}についても合わせて説明する。
 
[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]に[[楚 (戦国)|楚]]において勲功をあげた[[将軍]]に対して、「柱国」・「上柱国」の称号を授けたのが由来とされる。その後、[[更始帝]]に仕えた[[李通 (次元後漢初)|李通]](『[[後漢書]]』[[李通伝]])や[[後燕]]の[[テキ檀|翟檀]](『[[晋書]]』[[慕容垂]]伝)、[[北魏]]の[[長孫嵩]](『[[魏書]]』長孫嵩伝)に称号の「柱国」と官職の「将軍」を組み合わせた「柱国大将軍」を授けているが、あくまでも[[雑号将軍]]の一つとしての位置づけであった。
 
その位置づけが大きく変わるのは、北魏後期の[[孝荘帝]]の時代に柱国大将軍が[[丞相]]よりも上位の地位として位置づけられてからで、孝荘帝を擁立した[[爾朱栄]]がその功績によって[[大将軍]]から柱国大将軍に進められた。その後、[[東魏]]の権力を握った[[高歓]]や[[西魏]]の権力を握った[[宇文泰]]に与えられた。その後、宇文泰は有力な将軍である7名にも自分と同じ柱国大将軍の地位を与えたことから、この8名の将軍は「[[八柱国]]」と呼ばれた(ただし、実数については異説もある)。八柱国は西魏 - [[北周]]へと続く軍事門閥の基礎となっていくが、反面[[北周]]の成立後には柱国大将軍が八柱国以外の多数の将軍にも与えられた事によって[[散官]]化が進み、[[575年]]([[建徳]]4年)には柱国大将軍の上位として上柱国大将軍が置かれた。