「世界四大文明」の版間の差分

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「四大文明」という考え方の由来は不明である{{Sfn|川尻|2010|p=154f}}。
 
一説によれば、日本の考古学者、[[江上波夫]]に由来するとされる。[[杉山正明]]の述懐によれば、江上本人が「四大文明」は自分の造語だと主張したとされる{{Efn|杉山は以下のように述懐している。「ふと江上さんが「四大文明」という考えを日本に広めたのは自分だよと、愉快そうに笑われた。私は率直に、長江・ガンジス・マヤ・アンデスなども「文明」で、ざっと挙げても八~十個くらいはありますよとお答えした。ところが江上さんは、「四大文明」といったのは口調がいいからで、本当はいろいろあるさと大笑いされた。」<ref>杉山正明「書評『マヤ文明』 青山和夫著」2012年6月25日 読売新聞</ref>}}{{Efn|[[森安孝夫]]は次のように述べている。「「四大文明」というのは、第二次世界大戦後に日本でそれまでの西洋史と東洋史を統合した高校「世界史」が生まれた時に、西欧中心史観である[[ヨーロッパ中心主義|ユーロセントリスム]]を打破する目的で江上波夫によって作り出された
概念である。そのことは最近, 村井淳志 …… によって指摘されたが, その後, 私は畏友の杉山正明・京大教授より,かつて江上波夫先生と面談した時に直接御本人からそのことを伺った,と教えられた。」<ref>{{Cite journal|和書|journal=内陸アジア史研究|author=[[森安孝夫]]|year=2011 |title=内陸アジア史研究の新潮流と世界史教育現場への提言(基調講演1,<特集>内陸アジア史学会50周年記念公開シンポジウム「内陸アジア史研究の課題と展望」) |journal=内陸アジア史研究 |ISSN=0911-8993 |publisher=内陸アジア史学会 |year=2011 |volume=2926 |pages=3-34 |naid=110009829149 |doi=10.20708/innerasianstudies.26.0_3 |url=httphttps://wwwdoi.letorg/10.osaka-u20708/innerasianstudies.ac26.jp/toyosi/members/moriyasu/moriyasu_inner_asian_26.pdf0_3 |pages=8f}}</ref>}}。また、[[村井淳志]]の調査によれば、「四大文明」という語句の初出が確認できるのも、江上が携わった[[1952年]]発行の[[山川出版社]]の[[教科書]]『再訂世界史』だとされる<ref>{{Cite journal|和書|author=村井淳志 |title=この歴史用語--誕生秘話と生育史の謎を解く --「四大文明」は江上波夫氏が発案した造語だった!」『 |journal=社会科教育』2009年4月号、 |publisher=明治図書出版 |year=2009 |month=apr |volume=46 |issue=4 |pages=116-121 |naid=40016524949 |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R000000004-I10192677-00}}</ref>。
第二次世界大戦後に日本でそれまでの西洋史と東洋史を統合した高校「世界史」が生まれた時に,西欧中心史観である[[ヨーロッパ中心主義|ユーロセントリスム]]を打破する目的で江上波夫によって作り出された
概念である。そのことは最近, 村井淳志 …… によって指摘されたが, その後, 私は畏友の杉山正明・京大教授より,かつて江上波夫先生と面談した時に直接御本人からそのことを伺った,と教えられた。」<ref>{{Cite journal|和書|journal=内陸アジア史研究|author=[[森安孝夫]]|year=2011|title=内陸アジア史研究の新潮流と世界史教育現場への提言|volume=29|url=http://www.let.osaka-u.ac.jp/toyosi/members/moriyasu/moriyasu_inner_asian_26.pdf|pages=8f}}</ref>}}。また、[[村井淳志]]の調査によれば、「四大文明」という語句の初出が確認できるのも、江上が携わった[[1952年]]発行の[[山川出版社]]の[[教科書]]『再訂世界史』だとされる<ref>村井淳志「この歴史用語--誕生秘話と生育史の謎を解く 「四大文明」は江上波夫氏が発案した造語だった!」『社会科教育』2009年4月号、明治図書出版。</ref>。
 
また一説によれば、[[中国]][[清朝]]末期の知識人、[[梁啓超]]に由来するとされる{{Sfn|川尻|2010|p=154f}}。具体的には、梁啓超が[[1900年]]に作った[[詩]]『二十世紀太平洋歌』([[:zh:二十世紀太平洋歌]])<ref>[{{NDLDC|899081/454}} 壬寅新民叢報彙編・881頁所収(近代デジタルライブラリー)]</ref>の中にあり、「地球上の古文明の祖国に四つがあり、中国・インド・エジプト・小アジアである」と述べている{{Sfn|川尻|2010|p=154f}}{{Efn|この詩が作られた背景として、当時の梁啓超は[[戊戌の変法]]の失敗により[[1898年]]から日本に亡命しており、[[1899年]]末に[[ハワイ]]の同志に会うために[[太平洋]]を横断した際にこの詩を詠んだ。この詩で梁啓超は、世界史の三つの大きな区分を呈示している。第一は大河の周辺に四大文明が出現した「河流文明時代」、第二が[[地中海]]や[[紅海]]や[[黄海]]などの[[内海]]周辺に文明が広がった「内海文明時代」、そして今は[[大航海時代]]以降の「大洋文明時代」であるという。}}。なお、そのような梁啓超も含めて、20世紀初頭の中国人知識人たちの文明観は、[[福澤諭吉]]・[[浮田和民]]・[[茅原華山]]ら日本人の文明観の影響を受けていた{{Sfn|石川|2019|p=抄録}}{{Sfn|川尻|2010|p=154f}}。あるいは彼ら日本人を経由して、西洋の文明観の影響も受けていた{{Sfn|石川|2019|p=抄録}}。
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== 関連文献 ==
* {{Cite journal |和書 |lastauthor=石川 |first=禎浩 |date=2019-01-31 |title=中国近現代における文明史観の受容と展開 : 兼ねて「四大文明」説の由来を論ず (特集 : 文明) |url=https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/240864 |journal=史林 |volumeISSN=102 |issue=1 |pages=152–1870386-9369 |publisher=史学研究会 (京都大学大学院文学研究科) |DOIyear=2019 |month=jan |volume=102 |issue=1 |pages=152-187 |naid=120006605411 |doi=10.14989/shirin_102_152 |doiurl=10https://hdl.14989handle.net/shirin_102_1522433/240864 |issnref=0386-9369harv}}
* {{Cite journal |和書 |lastauthor=川尻 |first=文彦 |dateurl=2010-03-25https://doi.org/10.15055/00002488 |title=近代中国における「文明」――明治日本の学術と梁啓超 |urlmonth=https://doi.org/10.15055/00002488mar |year=2010 |journal=東アジア近代における概念と知の再編成 |volume=35 |pages=131-160 |ISSN 09152822 |publisher=[[国際日本文化研究センター]] |language=ja |DOIdoi=10.15055/00002488 |doiref=10.15055/00002488harv}}
 
=== NHKスペシャル ===