「島中雄三」の版間の差分

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[[奈良県]][[磯城郡]][[三輪町 (奈良県)|三輪町]](現[[桜井市]])に生まれる。父雄碩(ゆうせき)、母棹枝(さおえ)の二男。5歳年下の弟に[[中央公論]]編集長を経て同社社長になった[[嶋中雄作]](兄との混同を避け島中より'''嶋'''中に改姓した)がいる。
 
奈良県立畝傍中学(現[[奈良県立畝傍高等学校]])卒業後、[[英吉利法律学校|東京法学院]](現[[中央大学]])に学ぶが中退。[[福島四郎]]の「[[婦女新聞]]」の記者(編集、校正助手)として働いた時期に、同じ編集部で机を並べた3歳年上の[[下中弥三郎]]と知り合い、以後無二の親友となる。下中は後に[[平凡社]]を創立、「大人名事典」を発行するが、その中の「島中雄三」の項目は、社長の下中自身が執筆したものだった。1906年7月、文化・評論雑誌「[[ヒラメキ]]」を発刊、主筆兼編集人に。主幹をつとめた雑誌「サンデー」や「新公論」にも下中は応援した。「翠湖」の筆名で評論、短編小説、随想を書き始めたのはこの頃だった。
 
1919年、下中が創設した[[教職員組合|教員組合]][[啓明会 (教育運動団体)|啓明会]]の世話人になり、自らも[[安部磯雄]]らと「[[文化学会]]」を旗揚げした。[[社会主義]]陣営内の戦線統一を図るための労働組合同盟会の結成に尽力した。1920年12月、[[労働組合]]、学生団体、さまざまな思想的立場にある社会主義者を集めて「[[日本社会主義同盟]]」を結成した際、[[荒畑寒村]]、[[大杉栄]]、[[堺利彦]]、[[山川均]]らとともに発起人として参加した。1924年6月28日、普通選挙法の実施が近いと考えた[[青野季吉]]、[[鈴木茂三郎]]、[[市川房枝]]、[[賀川豊彦]]らと無産政党の組織化を準備する「[[政治研究会]]」の設立に積極的に参画し、世話役として活躍した。
 
1924年、下中、安部、[[秋田雨雀]]、[[菊池寛]]らと「日本[[フェビアン協会]]」を設立。1926年12月5日の[[社会民衆党]]結成にさいしては安部とともに主導的役割を果たし、中央執行委員に選出される。委員長には安部、書記長には[[片山哲]]が選ばれた。党結成大会では自作の宣言を読み上げた。