「上杉勝熙」の版間の差分

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勝煕は[[文化 (元号)|文化]]4年([[1807年]])まで生存していたが、[[天明]]2年([[1782年]])に治憲は勝煕の同母弟である[[上杉治広|勝意(後の治広)]]<ref>『寛政重修諸家譜』参照</ref>を養子とし、勝煕が米沢藩主になることはなかった。しかし、治憲の実子・[[上杉顕孝|顕孝]]と寛之助、治広の子・久千代が早世し男系が絶えたのと対照的に、勝煕の子である[[上杉斉定|斉定]]や[[上杉勝義|勝義]]が米沢藩主や[[支藩]]の[[米沢新田藩]]主を継ぎ、以後この両家は[[廃藩置県]]の後に至るまで(上杉宗家は現在まで)勝煕の血筋で続くこととなる。
 
このため、畠山上杉氏は、三男・[[上杉勝庸|勝庸]]が継承、長男・勝輝、その・勝広、勝持(勝広の子)、勝嘉と続く<ref>「沖縄県立博物館紀要 20号」(萩尾俊章、1994年)114頁</ref>。米沢藩には前述の[[畠山景広]]の子孫が米沢藩の一門衆・重臣としてあるが、勝煕の家は藩主家族<ref>「沖縄県立博物館紀要 20号」(萩尾俊章、1994年)114頁</ref>の扱いで明治に至る。
 
*[[上杉重定]]-[[上杉勝熙|畠山勝熙]]-勝庸-勝広-勝持-勝嘉
 
== 脚注 ==