「振武寮」の版間の差分

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第6航空軍司令官の菅原中将が書き残した日記には言及する記述はなく<ref group="注">4月6日に[[四式戦闘機]]配備の制空戦闘隊第102戦隊の1/3と特攻隊1/5が不出撃もしくは引き返ししたことを嘆く記述、5月28日全軍に軍人勅諭奉読式をさせたこと、6月8日に引き返した特攻隊員数十名を前に訓話したことは記述。</ref>{{Sfn|林|p=253}}、施設の運営管理者とされている倉澤少佐も「振武寮という名前の施設は存在しない。『裁縫室』と呼ばれる部屋に特攻隊員を匿っていた。」{{Sfn|佐藤|p=253}}や「待機していた特攻隊員を軍用旅館として利用していた[[博多駅]]前の旅館[[大盛館]]<ref group="注">以前は高級料亭であり、料亭時代は[[玄洋社]]の[[頭山満]]が常連客であった。2017年現在は鹿島本館という旅館名で営業中で、頭山が書いた自筆の額が現存。[[2007年]]に国の[[登録有形文化財]]に登録(福岡市では初登録)</ref>{{Sfn|林|p=200}}{{Sfn|伊藤|p=52}}に収容していたが満杯となったため、第6航空軍が接収していた福岡女学院寄宿舎を利用しただけで、強制的に収容していたわけではない。」{{Sfn|林|p=85}}、第6航空軍の参謀であった川元浩少佐(戦後に[[鹿児島県]][[谷山市]]の最後の市長となった)も、心身で障害が生じた特攻隊員を『休養』させる場所が福岡にあったと証言しており<ref name=":0">[[高木俊朗]]『特攻基地知覧』電子版P.1680</ref>、第6航空軍の首脳は『振武寮』の存在を認識していなかったという証言、もしくは否定する証言をしている。一方で、収容された特攻隊員らの証言によりその概要が一部明らかになっている{{Sfn|大貫|渡辺|}}<ref>[[西日本新聞]]記事『振武寮』1993年8月11日~15日</ref>。
 
但し『振武寮』という名称については、[[山口県]][[防府市]]の[[防府北基地|防府飛行場]]の空中勤務者宿舎([[防府駅|三田尻駅]]そばに所在。いわゆる「飛行機乗り」を、帝国陸軍では「空中勤務者」、帝国海軍では「搭乗員」と呼んだ)も『振武寮』と呼称されていたことが、第179振武隊浜田斎少尉が両親に出した遺書で判明し<ref>[[靖国神社]]編『英霊の言乃葉(1)』P.122</ref>、『振武寮』というのは単純に『振武隊』の隊員が宿泊した寮の総称であったという可能性も指摘されており{{Sfn|加藤|p=64}}、倉澤も「沖縄特攻隊は全て振武隊だから彼ら(特攻隊員)は勝手に振武寮と呼んだのだと思う。」と証言している{{Sfn|林|p=228}}。なお「航空寮」「八紘荘」「飛龍荘」など、民間の旅館等を航空関係者宿泊用に借り上げた場合に軍独自に名称を付けた事例は各地に散見され、「振武寮」の名称が特殊な事例ではない。機体を失った等の理由(人員・機材は増加配分という形で編成担任部隊から前線部隊に供給されるため機体を喪失した下級将校や下士官が自力で代替機材を調達するのは困難であった。)で帰還した隊員が司令部のある福岡に向かわせたのは、振武隊諸隊が人事上、第六航空軍司令部直轄(作戦の編成上は第六飛行団等現地飛行部隊の指揮下に入った)であるためであり、航空軍に付随した空中勤務者宿舎として捉えるならば全く自然なことであるため、この点は公平な視点で見ることが必要である
なお「航空寮」「八紘荘」「飛龍荘」など、民間の旅館等を航空関係者宿泊用に借り上げた場合に軍独自に名称を付けた事例は各地に散見され、「振武寮」の名称が特殊な事例ではない。機体を失った等の理由(人員・機材は増加配分という形で編成担任部隊から前線部隊に供給されるため機体を喪失した下級将校や下士官が自力で代替機材を調達するのは困難であった。)で帰還した隊員が司令部のある福岡に向かわせたのは、振武隊諸隊が人事上、第六航空軍司令部直轄(作戦の編成上は第六飛行団等現地飛行部隊の指揮下に入った)であるためであり、航空軍に付随した空中勤務者宿舎として捉えるならば全く自然なことであるため、この点は公平な視点で見ることが必要である。
 
==設立==