「立教大学」の版間の差分

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** [[高杉晋作]]がウィリアムズの元を訪ね、欧米事情を学ぶ{{Refnest|group="注釈"| 高杉晋作はチャニング・ウィリアムズから「アメリカでは、階級間に差別がなく一般人から大統領が生まれ、また大統領も、辞めれば一般人となること」など欧米の状況を聴き、知識を学ぶ(これが奇兵隊の発想の基にもなったといわれる)<ref name="history4">[https://www.rikkyo-hs-ob.com/pdf/suzukake2019.pdf ウィリアムズ主教の生涯と同師をめぐる人々 8頁]</ref>}}<ref name="kyoto">{{Cite journal|和書 |author=大江満 |title=パネル展示報告 立教創立者の遺品 : 京都教区寄贈ウィリアムズ資料 |journal=立教学院史研究 |issn=1884-1848 |publisher=立教大学立教学院史資料センター |year=2014 |issue=11 |pages=140-154 |naid=120005445074 |doi=10.14992/00009283 |url=https://doi.org/10.14992/00009283}}</ref>。
** [[大隈重信]]、[[前島密]]らにウィリアムズが英語や数学など英学を教える{{Refnest|group="注釈"|チャニング・ウィリアムズの元で学んだ[[大隈重信]]は[[早稲田大学]]を設立し、[[前島密]]は[[早稲田大学]](当時東京専門学校)の校長を務め、建学にも大きく関わっており、ウィリアムズが設立した立教大学と教え子が設立した早稲田大学は歴史的に深い関係がある。大隈重信は[[アメリカ独立宣言]]を知り、その後の人生に大きな影響を受けたが、アメリカ独立宣言の起草者である[[トーマス・ジェファーソン]]はウィリアムズが卒業した[[ウィリアム・アンド・メアリー大学]]の卒業生であり、大隈にアメリカ独立宣言を最初に教えたのはウィリアムズであった可能性が高い。1888年(明治21年)、大隈はウィリアムズからの要請により築地キャンパスの拡張のため尽力する<ref group="注釈" name="tsukiji-land2"/>。大隈は、1919年(大正8年)5月31日に開かれた池袋校舎落成式にも来賓として出席し、大学創設者ウィリアムズと結ばれた師弟関係から立教大学との縁故に及ぶ大演説を行った<ref name="tokyo-asahi19190601"/>。前島密はチャニング・ウィリアムズから郵便制度についても学び、後に日本の近代的郵便制度の基礎確立につながった<ref name="history4"/>。漢字廃止論もウィリアムズから示唆を受けた。また、早稲田大学建学の祖である[[グイド・フルベッキ|フルベッキ]]とウィリアムズは深い親交で結ばれた盟友であった。}}<ref name="history2"/><ref name="history4"/><ref name="kyoto"/><ref>[https://www.japanpost.jp/corporate/milestone/founder/index02.html 日本郵政『前島密年譜』]</ref>。
** 10月26日 - 長崎・山手居留地内(東山手11番地)に外国人のための英国聖公会会堂(日本で最初のプロテスタントの教会)が完成{{Refnest|group="注釈"|土地は928坪、借地名義人は英国領事モリソン、所要経費は整地費を含め銀1782分。ジョージ・スミス主教の寄金と居留外国人の献金によって献堂された。}}<ref>[https://nias.ac.jp/news/detail.php?id=999 『日本初のプロテスタント教会のスケッチ図をバークガフニ環境・建築学部長が発見』 長崎総合技術大学]</ref>。<br />ウィリアムズが教会の初代[[チャプレン]]となる<ref name="history06"/>。2代目チャプレンは[[フルベッキ]]<ref name="first"/>。
* 1863年(文久3年)- 荘村助右衛門がウィリアムズの元を訪ねる{{Refnest|group="注釈"| 荘村助右衛門は[[肥後藩]]士で、長崎でウィリアムズに学んだ。1866年(慶応2年)2月 - にはウイリアムズより洗礼を受ける(日本における聖公会初の受洗者)。荘村は、藩では兵学者で西洋流砲術、洋式操練の研究担当し、[[佐久間象山]]の塾や、[[長崎海軍伝習所]]で学んだ。ウィリアムズからは軍事書を手に入れたほか、[[フルベッキ]]や[[トーマス・ブレーク・グラバー|グラバー]]に加え[[木戸孝允|桂小五郎]]、[[坂本龍馬]]とも親交を持ち、坂本龍馬とは肥後藩を[[薩長同盟]]に参加させようと画策した<ref>{{Cite journal|和書 |author=中島一仁 |title=日本における聖公会初の受洗者・荘村助右衛門 : その人物像とウィリアムズとの交友をめぐって |journal=立教学院史研究 |issn=1884-1848 |publisher=立教大学立教学院史資料センター |year=2019 |issue=16 |pages=2-20 |naid=120006715214 |doi=10.14992/00018017 |url=https://doi.org/10.14992/00018017}}</ref><ref name="history4"/>。}}。
* 1864年(文久4年、元治元年)