「立教大学」の版間の差分

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=== 略歴 ===
[[画像:Canterbury Cathedral - Portal Nave Cross-spire.jpeg|316px|thumb|[[米国聖公会]]の始祖である[[イングランド国教会]]の総本山、[[カンタベリー大聖堂]]]]
[[米国聖公会]]([[イングランド国教会|英国国教会]]起源の会派)の信徒である[[マシュー・ペリー]]の来航([[黒船来航]])と、初代米国総領事で[[ニューヨーク市立大学シティカレッジ]]の創設者でもある[[タウンゼント・ハリス]]の活動による日本の開国に伴い、[[タウンゼント・ハリス|ハリス]]と遣清宣教師から宣教勧告と情報を得た米国聖公会が、[[1859年]](安政6年)2月に日本での伝道、学校開設、医療活動を目的とする日本[[ミッション]]の開設を決定した。この決定を受けて中国(当時、[[清]])で活動していた米国聖公会宣教師の[[ジョン・リギンズ (宣教師)|ジョン・リギンズ]]と[[チャニング・ウィリアムズ]]が任命され、プロテスタント最初の宣教師{{Refnest|group="注釈"|name="protestant"|[[琉球王国]]で伝道活動した英国聖公会の[[バーナード・ジャン・ベッテルハイム]]を日本における最初の[[プロテスタント]]宣教師とすることもあるが、琉球王国は[[1879年]]になって日本の[[沖縄県]]になることから、正式に日本ミッション開設のために[[米国聖公会]]から派遣された[[ジョン・リギンズ (宣教師)|ジョン・リギンズ]]と[[チャニング・ウィリアムズ]]を日本における最初の[[プロテスタント]]宣教師とする。}}として、[[1859年]](安政6年)の5月と6月に来日し、[[長崎市|長崎]]で[[ミッション]]を開設し、英語教育を開始したことに始まる。ウィリアムズは[[グイド・フルベッキ]]とともに[[長崎英語伝習所|長崎洋学所]]でも教鞭を執る。教え子の中に、のちに[[早稲田大学]]を創設する[[大隈重信]]や、近代郵便制度を創設する[[前島密]]、[[坂本龍馬]]と[[肥後藩]]を[[薩長同盟]]に参加させようと画策した荘村助右衛門<ref group="注釈" name="shoumura"/>など多くの志士がいた<ref name="history2"/><ref name="history4"/><ref name="kyoto"/>。
 
ウィリアムズ主教は、[[1870年]](明治3年)に大阪・[[川口 (大阪市)|川口]]の[[外国人居留地]]近くの与力町に英語塾「のちの英和学舎(1887年立教大学校に合併)」を設立し、[[1874年]](明治7年)には東京・[[築地]]の[[外国人居留地]]に[[聖書]]と[[洋学|英学]]の教育を目的とした私塾「立教学校」を設立する。これらの学校が立教大学の前身である。
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** [[大隈重信]]、[[前島密]]らにウィリアムズが英語や数学など英学を教える{{Refnest|group="注釈"|チャニング・ウィリアムズの元で学んだ[[大隈重信]]は[[早稲田大学]]を設立し、[[前島密]]は[[早稲田大学]](当時東京専門学校)の校長を務め、建学にも大きく関わっており、ウィリアムズが設立した立教大学と教え子が設立した早稲田大学は歴史的に深い関係がある。大隈重信は[[アメリカ独立宣言]]を知り、その後の人生に大きな影響を受けたが、アメリカ独立宣言の起草者である[[トーマス・ジェファーソン]]はウィリアムズが卒業した[[ウィリアム・アンド・メアリー大学]]の卒業生であり、大隈にアメリカ独立宣言を最初に教えたのはウィリアムズであった可能性が高い。1888年(明治21年)、大隈はウィリアムズからの要請により築地キャンパスの拡張のため尽力する<ref group="注釈" name="tsukiji-land2"/>。大隈は、1919年(大正8年)5月31日に開かれた池袋校舎落成式にも来賓として出席し、大学創設者ウィリアムズと結ばれた師弟関係から立教大学との縁故に及ぶ大演説を行った<ref name="tokyo-asahi19190601"/>。前島密はチャニング・ウィリアムズから郵便制度についても学び、後に日本の近代的郵便制度の基礎確立につながった<ref name="history4"/>。漢字廃止論もウィリアムズから示唆を受けた。また、早稲田大学建学の祖である[[グイド・フルベッキ|フルベッキ]]とウィリアムズは深い親交で結ばれた盟友であった。}}<ref name="history2"/><ref name="history4"/><ref name="kyoto"/><ref>[https://www.japanpost.jp/corporate/milestone/founder/index02.html 日本郵政『前島密年譜』]</ref>。
** 10月26日 - 長崎・山手居留地内(東山手11番地)に外国人のための英国聖公会会堂(日本で最初のプロテスタントの教会)が完成{{Refnest|group="注釈"|土地は928坪、借地名義人は英国領事モリソン、所要経費は整地費を含め銀1782分。ジョージ・スミス主教の寄金と居留外国人の献金によって献堂された。}}<ref name="nias">[https://nias.ac.jp/news/detail.php?id=999 『日本初のプロテスタント教会のスケッチ図をバークガフニ環境・建築学部長が発見』 長崎総合技術大学]</ref>。<br />ウィリアムズが教会の初代[[チャプレン]]となる<ref name="history06"/>。2代目チャプレンは[[フルベッキ]]<ref name="first"/>。教会の管理人の一人を[[トーマス・ブレーク・グラバー|トーマス・グラバー]]が務める<ref name="nias"/>。
* 1863年(文久3年)- 荘村助右衛門がウィリアムズの元を訪ねるで学ぶ。{{Refnest|group="注釈"|name="shoumura"| 荘村助右衛門は[[肥後藩]]士で、長崎でウィリアムズに学んだ。1866年(慶応2年)2月 - にはウイリアムズより洗礼を受ける(日本における聖公会初の受洗者)。荘村は、藩では兵学者で西洋流砲術、洋式操練の研究担当し、[[佐久間象山]]の塾や、[[長崎海軍伝習所]]で学んだ。ウィリアムズからは軍事書を手に入れたほか、[[フルベッキ]]や[[トーマス・ブレーク・グラバー|グラバー]]に加え[[木戸孝允|桂小五郎]]、[[坂本龍馬]]とも親交を持ち、坂本龍馬とは肥後藩を[[薩長同盟]]に参加させようと画策した<ref>{{Cite journal|和書 |author=中島一仁 |title=日本における聖公会初の受洗者・荘村助右衛門 : その人物像とウィリアムズとの交友をめぐって |journal=立教学院史研究 |issn=1884-1848 |publisher=立教大学立教学院史資料センター |year=2019 |issue=16 |pages=2-20 |naid=120006715214 |doi=10.14992/00018017 |url=https://doi.org/10.14992/00018017}}</ref><ref name="history4"/>。}}。
* 1864年(文久4年、元治元年)
** ウィリアムズの教え子の[[何礼之]]が、長崎の自邸で英語の私塾を開く。塾長は[[前島密]]<ref name="momoyama">{{Cite journal|和書 |author=村瀬寿代 |title=長崎におけるフルベッキの人脈 |journal=桃山学院大学キリスト教論集 |issn=0286973X |publisher=桃山学院大学総合研究所 |date=2000-03 |issue=36 |pages=63-94 |naid=110000215333 |url=http://id.nii.ac.jp/1420/00002595/}}</ref>。