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[[画像:Grave of Akamatu Harumasa.jpg|thumb|晴政の墓石]]
 
[[永正]]17年([[1520年]])、守護代の[[浦上氏]]との対立に敗れ、強勢隠居へ追いやられた父の義村から僅か8歳で家督を譲られる。しかしその後、備前[[守護代]]・[[浦上村宗]]への再反攻に失敗した父を翌[[大永]]元年([[1521年]])9月に殺されている。[[山名氏]]の侵攻に対抗するため一時的に村宗と手を結んだこともあるが、山名氏の脅威が去ると再び争い、一時は居城の置塩城を追われ美作の[[新庄山城]]へ避難を余儀なくされたこともある。
 
[[享禄]]4年([[1531年]])、[[細川晴元]]と対立する[[管領]]・[[細川高国]]を擁した浦上村宗が[[摂津国]]へ侵攻すると、村宗たちの後詰めとして参戦したが、実は[[堺公方]]の[[足利義維]]へ密かに人質を送って裏切りを確約していた。6月4日、[[神呪寺]]に布陣していた晴政が晴元方に内応して高国・村宗軍を背後から攻撃。晴元方からも挟撃された高国・村宗軍は壊滅し、村宗を戦死させ、高国も自害へと追い込んだ([[大物崩れ]])。
 
これにより、ある程度は実権を回復したものの村宗の子である[[浦上政宗]]や[[浦上宗景]]との対立はその後も続き、[[天文 (元号)|天文]]3年([[1534年]])8月には朝日山([[姫路市]])にて激戦を繰り広げている。さらに、天文6年([[1537年]])12月に始まる[[出雲国]]の尼子詮久(後の[[尼子晴久]])侵攻により、対立していた浦上兄弟は恭順するも晴政の領国は混乱し、[[宍粟市|宍粟]]の[[宇野村頼]]が寝返る。天文7年([[1538年]])7月には高砂城([[高砂市]])の梶原氏を頼るも、寝返った[[小寺則職 (戦国時代)|小寺則職]]・[[明石正風]]らの攻撃を受け、[[郡家 (淡路市)|淡路国郡家]]の田村能登守のもとへ逃亡する。天文8年([[1539年]])4月8日、[[細川氏|阿波細川氏]]の援助を取り付けた晴政は、明石に上陸して[[枝吉城]]を攻略したが、最後まで尼子勢に抵抗していた[[三木城]]の[[別所氏]]も内通しているとの噂が流れ、11月25日に[[堺]]の海会寺へと落ち延びた。
 
天文9年([[1540年]])から翌年にかけて尼子氏の[[安芸国]]遠征失敗([[吉田郡山城の戦い]])によって播磨から尼子氏が撤退した。領国の危機は去ったとはいえ、赤松氏の権威失墜までは止まらなかった。なお、12代将軍・[[足利義晴]]より「晴」の字を賜り、'''晴政'''(はるまさ)と改名したのこの時期である。
 
天文21年([[1552年]])、尼子晴久が幕府から備前・美作守護職に任ぜられた事で、晴政は守護としての2国の権限を喪失する。残る播磨での主権も浦上氏に奪われ続けるなか、永禄元年([[1558年]])8月には[[小寺政職]]が晴政の嫡子・[[赤松義祐|義祐]]を擁立するクーデタが起き、娘婿の[[赤松政秀]]の居城龍野城に逃れた。これにより赤松氏惣領家は分裂してしまい、守護大名赤松家は領主層から推戴される一地方権力へと凋落していったのである。その後は政秀の庇護のもと播磨北部や美作に勢力基盤を移し、[[毛利氏]]や在地領主([[嵯峨山氏]]・[[広戸氏]]・[[豊福氏]]など)らと連携して領国経営を行った晴政であったが、永禄8年([[1565年]])1月16日、間もなく死去した。
 
墓所は姫路市の[[松安寺]]跡に存在する。
 
== 偏諱を与えた人物 ==