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沛公となった劉邦は蕭何や曹参・樊噲らと共に地元の若者2000~3000人らを率いて武装集団を結成し、秦に服属する胡陵・方与などの周囲の県を攻めに行き、故郷である豊の留守を[[雍歯]]という者に任せたが、雍歯は旧[[魏 (戦国)|魏]]の地に割拠していた[[魏咎]]の武将の[[周フツ|周巿]]に誘いをかけられて寝返ってしまった<ref>『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「周巿使人謂雍齒曰~即反為魏守豐。」</ref>。怒った劉邦は豊を攻めるが落とすことができず、仕方なく沛に帰った。当時、[[陳勝]]は秦の[[章邯]]の軍に敗れて逃れたところを殺されており、その傘下に属した戦国時代の[[楚 (春秋)|楚]]の公族の末裔である[[景駒]]という人物が、同じく陳勝軍の[[甯君]]と[[秦嘉 (秦末)|秦嘉]]という者に陳勝に代わる王に擁立されていた。劉邦は豊を落とすためにもっと兵力が必要だと考えて、景駒に兵を借りに行った<ref>『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「沛公怨雍齒與豐子弟叛之~欲請兵以攻豐。」</ref>。
 
[[紀元前208年]]、劉邦は甯君と共に秦軍と戦うが、敗れて引き上げ、新たに碭(現在の[[安徽省]][[宿州市]][[碭山県]])を攻めてこれを落とし、ここにいた5、6千の兵を合わせ、さらに下邑(現在の安徽省宿州市碭山県)を落とし、この兵力を持って再び豊を攻めて、やっとの思いで豊を陥落させた<ref>『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「東陽甯君、沛公引兵西~還軍豐。」</ref>。雍歯は[[趙 (戦国)|趙]]の[[武臣]]を頼って逃れた
 
豊を取り返した劉邦であったが、この間に豊などとは比べ物にならないほどに重要なものを手に入れていた。[[張良]]である。張良は始皇帝暗殺に失敗した後に、旧[[韓 (戦国)|韓]]の地で兵士を集めて秦と戦おうとしていたが、それに失敗して留(沛の東南)の景駒の所へ従属しようと思っていた<ref>『史記』巻55 世家25 留侯世家「景駒自立為楚假王,在留。良欲往從之,道還沛公。」</ref>。張良自身も自らの指導者としての資質の不足を自覚しており、自らの兵法をさまざまな人物に説いていたが、誰もそれを聞こうとはしなかった。ところが劉邦は、出会うなり熱心に張良に言葉を聞き入り、張良はこれに感激して「沛公はほとんど天性の英傑だ」と劉邦のことを褒め称えた<ref>『史記』巻55 世家25 留侯世家「良數以太公兵法說沛公,沛公善之,常用其策。良為他人者,皆不省。良曰:「沛公殆天授。」故遂從之,不去見景駒。」</ref>。これ以降、張良は劉邦の作戦のほとんどを立案し、張良の言葉を劉邦はほとんど無条件に聞き入れ、ついには天下をつかむことになる。劉邦と張良の関係は、君臣関係の理想として後世の人に仰ぎ見られることになる。その頃、景駒は[[項梁]]によって殺され、項梁は薛の地にて各地の諸将を招集し、陳勝の死を確認した上で、反秦勢力の新たな頭領として今後の計画に関する会盟を執り行った。また旧[[楚 (春秋)|楚]]の[[懐王]]の孫に当たる[[義帝|熊心]]という人物を探し出して楚王の位に即け、祖父と同じ懐王の号を与えて名目上の君主として擁立した。この会盟には劉邦も参加し<ref>史記 巻7 項羽本紀「項梁乃引兵入薛~此時沛公亦起沛,往焉。」</ref>、項梁の勢力へと参入する事となる。そして項梁より新たに5000人の兵と10名の将を得て、ようやく豊の地を奪還する事に成功した<ref>史記 巻8 高祖本紀「項梁益沛公卒五千人,五大夫將十人。沛公還,引兵攻豐。」</ref>
 
項梁は何度となく秦軍を破ったが、それと共に傲慢に傾いて秦軍を侮るようになり、[[章邯]]軍の前に戦死した。劉邦たちは遠征先から軍を戻し、新たに反秦軍の根拠地に定められた彭城(現在の[[江蘇省]][[徐州市]])へと集結した<ref>史記 巻8 高祖本紀「沛公與項羽方攻陳留,聞項梁死,引兵與呂將軍俱東。呂臣軍彭城東,項羽軍彭城西,沛公軍碭。」</ref>。項梁を殺した章邯は軍を北へ転じて[[趙 (戦国)|趙]]を攻め、趙王[[趙歇]]の居城[[鉅鹿県|鉅鹿]]を包囲したため、趙は楚へ救援を求めてきていた。そこで懐王は[[宋義]]・項羽・[[范増]]を将軍として主力軍を派遣し、趙にいる秦軍を破った後、咸陽へと攻め込ませようとし、その一方で劉邦を別働隊として西回りに咸陽を衝かせようとした。そして懐王はこうした行軍の条件に差を設けた上で、「一番先に[[関中]](咸陽を中心とした一帯)に入った者をその地の王とするだろしよう」と約束した<ref>史記 巻8 高祖本紀「趙數請救,懷王乃以宋義為上將軍,項羽為次將,范增為末將,北救趙。令沛公西略地入關。與諸將約,先入定關中者王之。」</ref>
その頃、景駒は[[項梁]]によって殺され、項梁が新たな反秦軍の頭領となって、旧[[楚 (春秋)|楚]]の[[懐王]]の孫を連れてきて楚王の位に即け、祖父と同じく懐王と呼ばせた(後に項羽より[[義帝]]の称号を送られる)。劉邦は項梁の勢力下に入り、項梁の甥である項羽と共に秦軍と戦う。
 
項梁は何度となく秦軍を破ったが、それと共に傲慢に傾いて秦軍を侮るようになり、[[章邯]]軍の前に戦死した。劉邦たちは遠征先から軍を戻し、新たに反秦軍の根拠地に定められた彭城(現在の[[江蘇省]][[徐州市]])へと集結した。項梁を殺した章邯は軍を北へ転じて[[趙 (戦国)|趙]]を攻め、趙王の居城[[鉅鹿県|鉅鹿]]を包囲したため、趙は楚へ救援を求めてきていた。そこで懐王は[[宋義]]・項羽・[[范増]]を将軍として主力軍を派遣し、趙にいる秦軍を破った後、咸陽へと攻め込ませようとし、その一方で劉邦を別働隊として西回りに咸陽を衝かせようとした。そして懐王は「一番先に[[関中]](咸陽を中心とした一帯)に入った者をその地の王とするだろう」と約束した。
 
趙へ向かった項羽は、途中で行軍を意図的に遅らせていた宋義を殺して自ら総指揮官となり、渡河した後に船を全て沈めて3日分の兵糧を配ると残りの物資を破棄し、退路を断って兵士たちを死に物狂いで戦わせるという凄まじい戦術で秦軍を撃破、一気にその勇名を高めた。しかしその後、咸陽へ進軍する途中で秦の捕虜20万を生き埋めにするという、これも凄まじい虐殺を行う。このことは後の[[楚漢戦争]]でも項羽の悪評として人々の心に残り、多大な影響をもたらすことになる。