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'''内藤 清長'''(ないとう きよなが、[[1565年]]没?)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の武将。[[内藤義清]]の子。[[内藤家長]]の父。[[内藤信成]]の養父で外祖父に当たる。[[内藤正成]]の伯父。
 
[[三河国|三河]]の[[内藤氏]]は[[藤原秀郷]]または[[藤原道長]]の末裔を称する[[内藤氏]]の一派であると自称するが、具体的な事跡が明らかになるのは清長の父の義清の代からである。清長は[[松平清康]]、[[松平広忠]]に仕え、戦において甥の正成ら一族とともに活躍し、特に弓の名手として知られていた。しかし、広忠ので彼義理の孫に当たる[[徳川家康|松平家康]]の、[[三河一向一揆]]との戦いにおいて[[本多正信|本多弥八郎]](正信)らと共に主家から離反し、主君とった。戦乱が鎮まると彼は蟄居を命ぜられて、間もなく没した。
 
一方、清長が晩年になって生まれた嫡子の家長は三河一向一揆戦において家康方にとどり、また家康の義理の叔父に当たったため家康の手計らいで内藤氏の家名は存続した。[[江戸幕府]]の成立後には内藤氏は[[譜代]]の大名となった。また、清長は主君広忠の落し胤で、自分の娘が産んだとされる信成を養育し、養子としている(信成の母が清長の息女であったからとする説もある)。この信成の系統も江戸期に準々[[親藩寛政重修諸家譜]]の大名」によるして存続している。
清長の息女(一説では“於春”)が主君・広忠の落胤であった信成を産んだとされ、彼が自分の外孫の信成を養子として、教育を施したといわれている。この信成は後に叔父の家長に内藤家の家督を譲り渡し、新たに「松平内藤家」を興している。この系統は江戸期に譜代、または[[親藩|準々親藩]]の大名として存続している。
 
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