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築地のアメリカ公使館跡には8個の小松石の石標が残された。石標には、[[ハクトウワシ|白頭鷲]]、[[アメリカ合衆国の国旗|星条旗]]、星の3種類の彫刻が施されており、白頭鷲はアメリカの国鳥であり、星条旗に彫られた13の星は同国の最初の13州を示す。8個の石標のうち3個は[[1984年]](昭和59年)10月に日米友好のシンボルとして、赤坂のアメリカ大使館に寄贈され、現在同大使館の前庭に設置されている。残る5個は、築地居留地時代を伝えるものとして中央区民文化財に登録されており、3個は聖路加国際病院敷地に、2個は聖路加ガーデンに設置されている。<br />[[1930年]](昭和5年)5月26日には、[[チャールズ・シュライバー・ライフスナイダー|ライフスナイダー]]総長が、米国大使館の定礎式で日米関係者が300人以上参加する中、司会進行と祈祷を行っている<ref name="shibusawa_doc40"/>。[[1939年]](昭和14年)には、日本で最初のアメリカ研究の機関として「アメリカ研究所」が設立された<ref name="America_research"/>。}}{{Refnest|group="注釈"|[[1919年]](大正8年)の立教大学池袋校舎落成式では、会場正面に大型の日米国旗を交差する中で開催され、[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]などとともに[[駐日アメリカ合衆国大使|駐日米国大使]]も出席し祝辞を述べ、日米両国の友好の証として式典が盛大に祝われた。}}。[[日本聖公会]]系の[[キリスト教主義学校]](ミッションスクール)である。
 
[[聖公会]]系の大学である名門[[オックスフォード大学]][[クライスト・チャーチ (オックスフォード大学)|クライスト・チャーチ]]をはじめ、世界の聖公会系大学が120校以上加盟するCUAC(世界聖公会大学連合)に属している。[[1883年]](明治16年)に、米国式カレッジとして[[東京大学]]とともに日本最高峰の教育機関である「立教大学校」を組織設立する{{Refnest|group="注釈"|name="rikkyo-college"|立教大学校は、1883年(明治16年)に米国式カレッジとして東京・築地に設立され、[[東京大学]]とともに明治中期の日本を代表する最高レベルの高等教育機関である。角帽(モルタルボード型)を最初に着用して都内を闊歩したのは、立教大学校生といわれる。新校舎は美しい尖塔を有し、東京見物の人々も訪れるほどであったいう。カリキュラムは全て英語の教科書を用い、教員も主に外国人であった。
 
当時、最高学府としての大学の名を有する[[高等教育]]機関は、1877年(明治10年)設立の東京大学と立教大学校のみで、「東京に大学校二あり、一は本郷に又た一は築地に在り」と呼ばれ、東京大学と立教大学校の二つをもって大学校の代表とし、日本屈指の教育機関であった。同時期、1877年(明治10年)に工学寮を改称して生まれた[[工部大学校]](のちの東京大学工学部)もあったが、技術者養成の教育機関であった。また、1880年(明治13年)に開校した[[築地大学校]]も存在したが、1883年(明治16年)には横浜の[[先志学校]]と[[東京一致神学校]]へ人材を供給することを目標に統合され、[[東京一致英和学校]]となり、大学という名称から変更している<ref name="college">{{Cite journal|和書 |author=鈴木範久 |title=立教大学校とカレッジ教育 |journal=立教学院史研究 |issn=1884-1848 |publisher=立教大学 |year=2007 |issue=5 |pages=2-16 |naid=110008682386 |doi=10.14992/00015286 |url=https://doi.org/10.14992/00015286}}</ref>。立教大学校は、国粋主義が広がり出したことによるキリスト教への圧力や、日本の教育制度の変更などから、その後カレッジ構想を断念せざるを得ない状況となったが、日本の教育制度に合わせる対応をするなど、障壁を乗り越え、日本での教育を維持した<ref name="history2">[https://www.rikkyo-hs-ob.com/05.html 立教中高の歴史]</ref>。}}。[[1922年]](大正11年)には[[大学令]]による[[旧制大学|大学]]となり、[[立教大学大学院文学研究科・文学部|文学部]]、[[立教大学大学院経済学研究科・経済学部|商学部]]、[[大学予科|予科]]を設置。[[ミッション系大学]]としては[[同志社大学]]に次いで2番目に認可を受けた<ref>『立教学院百年史』306-307頁</ref>。[[第二次世界大戦]]前にはSt.Paul's Collegeと変更。現在は正式な英称をRikkyo Universityとするが、今もスクール・ニックネームとして「St.Paul's」が使われる<ref>[https://www.rikkyogakuin.jp/designguide/g4rifp00000004ze-att/7.pdf 立教学院デザインガイド (7-00)立教学院のセカンダリー・シンボル]</ref>。<!--立教大学公式サイトの英語ページを丹念に探しましたが自校を示すところは全てRikkyo Universityとなっているため、とりあえずこのような表現にしてあります。もし、St.Paul's UniversityからRikkyo Universityを正式に使用するに至った経緯を書いた書籍やページ(ただし個人作成ページ除く)がありましたらノートで教えてください。-->
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** 6月 - 立教学校の英称を「St. Paul's School」とする<ref name="history2"/><ref name="rikkyo100_151"/>。
** 10月 - ウィリアムズの教え子の[[大隈重信]]が[[東京専門学校 (旧制)|東京専門学校]](のちの[[早稲田大学]])を設立。
** 12月 - [[ジェームズ・ガーディナー|ガーディナー]]校長の設計による新校舎(立教大学校)が東京・築地居留地37番に完成。ゴシック風の3階建煉瓦校舎<ref name="history"/>。
* 1883年(明治16年)
** 1月 - '''立教大学校(St. Paul's College, 6年制)設立。'''[[アメリカ合衆国]]式のカレッジで、[[東京大学]]とともに日本最高峰の教育機関。カリキュラムは全て英語の教科書を用い、教員も主に外国人であった(第1次学政改革)<ref name="college"/>。校長にはガーディナーが就任<ref name="history"/>。大学校内に三一神学校を併置<ref>『立教学院百年史』630頁</ref>。