「ジョルジュ・ティレ=ボニェ」の版間の差分

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ジョルジュ・ティレ=ボニェは1855年1月15日に[[サン・マロ]]のサン=セルヴァンに生まれた。彼の父親はシャルル・ティレ=ボニェ、母親はアメリ・マリー・デレといい、彼は四番目の子供だった。彼は特別な配慮によって兵役を免除され、[[パリ国立高等美術学校]]に入学した。
 
彼は文芸サークル「[[:fr:Les Hydropathes|レ・イドロパット]]」(水療法。水を恐れて酒を飲むという意味含みもある)のメンバーとして機関紙の製図工を務めていた。
彼はマリー・ヴィジェが経営するカフェ「La Belle Gabrielle」に[[モーリス・ユトリロ]]や[[:fr:Jules Depaquit|ジュール・デパキ]]と通った。彼は[[:fr:Quartier de la Goutte-d'Or|カルチェ・デ・ラ・グーテ=ドール]]に住んだが、貧困にあえいでいた。結婚後は[[:fr:rue Cavé|カヴェ通り]]17番に移り住んだが、妻は栄養失調に陥り、彼も苦しみを紛らわせるための酒で病気となり、夫婦は170フランの滞納家賃を抱えた。彼は1935年10月15日に貧困のうちに世を去り、[[ペール・ラシェーズ墓地]]45区に埋葬された。