「サイパンの戦い」の版間の差分
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一方で日本側は、絶対の自信を持っていたサイパンの陥落によってB-29による関東及び中部地区への空襲が開始されると覚悟した。この重要性を痛感した[[永野修身]]軍令部総長は「サイパンを失った時は、まったく万事休すでした。日本は文句なしに恐るべき事態に直面することになりました」と考え{{Sfn|柏木|1972|p=80}}、[[防衛総司令部|防衛総司令官]]であった皇族の[[東久邇宮稔彦王]]も「B-29は並外れた兵器であり、このような兵器に対抗する手段は日本にはもうなかった」と考えた{{Sfn|カール・バーカー|1971|p=141}}。窮地に陥った大本営は、サイパンからの日本本土空襲の開始時期の想定を開始し、参謀本部第2部長[[有末精三]]中将が陸軍航空本部調査班に分析を指示、調査班は9月から10月にかけて50機~60機のB-29がサイパンに進出すると想定した{{Sfn|戦史叢書19|1968|p=399}}。さらに調査班は9月23日に陥落後初めてサイパンの航空偵察に成功し、B-29の機体自体は撮影することができなかったが、イズリー飛行場が整備されていることを確認、また10月にはトラックにB-29が飛来するようになり、B-29のマリアナ進出は確実視された{{Sfn|戦史叢書19|1968|p=399}}。さらに日本陸軍は、サイパンの偵察と攻撃を任務とする第2独立飛行隊を編成(指揮官:[[新海希典]]少佐)し、硫黄島に進出させて訓練を行わせた{{Sfn|伊沢保穂|1982|p=273}}。第2独立飛行隊のサイパンへの攻撃は1944年11月2日に開始され、陸軍航空隊 [[九七式重爆撃機]]9機が[[タ弾]]を装備して出撃したが5機が未帰還、11月6日には3機が出撃し全機帰還、両日ともに爆撃には成功し20機以上のB-29撃破を報告しているが{{Sfn|伊沢保穂|1982|p=275}}、実際には飛行場外に着弾しB-29の損害はなかった{{Sfn|サカイダ|2001|p=28}}。
アメリカ軍による日本本土空襲の準備は着々と進み、11月1日にB-29の偵察型F-13の[[Tokyo Rose|トウキョウローズ]](機体番号#42-93852、第73爆撃航空団所属)が東京上空を偵察飛行した。11月11日に計画している東京の[[中島飛行機]][[武蔵野]]工場爆撃のための事前偵察が任務であったが、高度10,000 m以上で飛行していたので、日本軍の[[要撃機|迎撃機]]はF-13を捉えることができなかった。この日はほかにも、のち戦時公債募集キャンペーンにも用いられたヨコハマヨーヨー(#42-24621)など合計3機が、B-29としては初めて東京上空を飛行した{{Sfn|戦史叢書19|1968|p=403}}。これらの偵察写真によって空襲目標リストが作成されたが、まずは航空産業を壊滅させるため、大小の工場1,000以上が目標としてリストアップされた。11月11日のB-29による東京
日本軍第2独立飛行隊は、東京が初空襲を受けた3日後の11月27日に報復攻撃として、陸海軍共同でサイパンの飛行場を攻撃している。陸軍航空隊[[新海希典]]少佐率いる第二独立飛行隊の[[四式重爆撃機]]2機がイズリー飛行場(アスリートよりアメリカ軍が改名)を爆撃し完全撃破4機と16機が損傷させ2機とも生還した。続いて海軍航空隊の大村謙次中尉率いる第一御盾隊の零戦12機が、イズリー飛行場を機銃掃射しB-29を5機撃破し、また迎撃してきたP-47の1機を撃墜したが全機未帰還となった。新海少佐の第二独立飛行隊は12月7日の夜間攻撃でもB-29を4機を撃破、23機を損傷させている。
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