「ドミトリー・ヴヌク」の版間の差分

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イヴァン3世が最初の妻[[マリヤ・ボリソヴナ]]との間にもうけた長男[[イヴァン・マラドイ]]と、その妻でモルドヴァ公[[シュテファン3世 (モルドヴァ公)|シュテファン3世]]の娘であるエレナ・ステパノヴナ([[:ru:Елена Стефановна|Елена Стефановна]])の間の一人息子として生まれた。
 
1490年に祖父の後継者だった父が死ぬと、祖父が後妻の[[ゾイ・パレオロギナ|ソフィヤ・フォミーニチナ]]との間にもうけた最年長の息子ヴァシーリー(後の[[ヴァシーリー3世]])と、ドミトリーの間で後継者問題が起きた。イヴァン3世は孫息子を可愛がっており、1495年には[[ノヴゴロド]]に行く際にドミトリーを伴い、1498年2月4日には[[モスクワ]]・[[クレムリン]]の[[生神女就寝大聖堂 (モスクワ)|生神女就寝大聖堂]]において、イヴァン3世から大公冠である[[モノマフの冠|モノマフの帽子]]を授けられ、大公位継承者にして共同統治者であると公的に宣言された。
 
共同統治者とはいえわずか14歳のドミトリーは何の重要な政治的役割も担わなかった。そのうちイヴァン3世は成長した次男ヴァシーリーに信頼と期待を抱くようになり、1499年にはヴァシーリーをノヴゴロドと[[プスコフ]]の大公に任命した。やがて1500年に[[リトアニア大公国]]との間で戦争が起きると、ヴァシーリーの政治的影響力は格段に強まっていった。1502年4月11日、ドミトリーはモスクワ共治大公の称号と大公位継承者の地位を剥奪され、これらはヴァシーリーが帯びる称号になった。この政変劇の原因と詳しい経緯はよくわかっていない。ドミトリーと母親のエレナは逮捕され、ついには地下牢に押し込められた。1505年イヴァン3世が死ぬと、ヴァシーリーが大公位を継いだ。