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== 生涯 ==
[[張臣]]の子として生まれた。父の蔭官から功績を重ねて[[楡陽区|延綏]]副総兵に上った。勇敢にして計略に長け、騎射に精妙で、たびたび戦って敗れたことがなかった。[[
万暦40年([[1612年]])、沙計が再び塞内に侵入した。承廕は[[横山区|響水堡]]で遮って撃退し、170人あまりを斬首した。この功績により都督同知の代行に進み、楡林衛副千戸の位の世襲を認められた。同年、遼東総兵官の[[麻貴]]が罷免されると、承廕が代わって遼東総兵官に任じられた。守将の祖天寿が猟に出ているあいだに蟒金諸部によって曹荘が包囲され、将士の死者230人を出し、600人あまりがさらわれた。祖天寿は数騎で逃げ帰った。そのことが奏聞されると、祖天寿は死刑を論告された。承廕は任についたばかりであったため、処断を免れた。敖克らが中後所を攻撃してきたため、承廕がこれをはばんでその2長を斬ると、残党は塞外へと敗走していった。このころ[[チャハル]]の[[リンダン・ハーン]]や炒花・煖兎・宰賽らが遼東の国境を圧迫し、侵犯しない年はない状況にあった。承廕が着任する前、リンダン・ハーンが3万騎を率いて穆家堡を攻めようとやってくると、参将の郎名忠らがさえぎってその40騎あまりを斬った。リンダン・ハーンが態勢を立てなおして再び進攻してくると、守将の梁汝貴がその陣営を襲撃して破った。ナイマン諸部が中後所や連山駅を相次いで攻撃してくると、副総兵の李継功らが奮戦して、その首魁を斃して撃退した。これによりリンダン・ハーンに服属する貴英哈など三十数部は明への奉献を約束して、遼西はしばらくの安定をみた。承廕はまもなく病のため官を去った。1年あまりして、薊鎮の守備に起用された。着任しないうちに、再び遼東総兵官に転じた。
万暦46年([[1618年]]
== 子女 ==
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