「武士彠」の版間の差分

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李淵が起兵すると、士彠は大将軍府鎧曹参軍となった。[[長安]]の平定に参加した功績により、光禄大夫となり、太原郡公に封ぜられた。この頃、士彠が「陛下が長安に入られ、天子の位に昇られる夢をかつて見たことがあります」と言うと、李淵は「おまえは以前は王威の党与だった。劉弘基らが獄につながれるのを防いでくれたし、その功績をくんだからこそ、おまえを官位につけてやった。いま見え透いた媚びを私に売るのか?」と笑っていった。
 
士彠は[[工部 (六部)|工部]][[尚書]]に累進し、応国公に封ぜられ、[[利州]][[都督]]・[[荊州]]都督を歴任した。[[貞観 (唐)|貞観]]9年([[635年]]に死去すると、[[礼部]]尚書の位を贈られ、[[諡]]を定といった。
 
[[永徽]]年間に士彠の次女の[[武則天|武照]]が[[皇后]]に上ると、并州都督・[[司徒]]の位を追贈され、周国公に追封された。[[咸亨]]年間、[[太尉]]・太子太師の位を加えられ、太原郡王に追封され、功臣の上に列した。武照が朝政をみるようになると、士彠は忠孝太皇と追尊され、崇先府が建てられて、属官が置かれ、五代にさかのぼって王位を追贈された。[[武則天#登位|武周]]が建てられると、[[洛陽|東都]]に武氏七廟が建てられ、帝に追冊された。[[先天 (唐)|先天]]年間、士彠の帝号が削られ、太原郡王とされ、武氏七廟も廃止された。