「鳩 (ピカソ)」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
 
18行目:
 
== 背景 ==
[[スペイン内戦]]が勃発するまで、ピカソはほとんど[[非政治主義|政治に無関心]]だった。画商の{{仮リンク|[[ダニエル=ヘンリー・カーンワイラー|en|Daniel-Henry Kahnweiler}}]]は、当時のピカソについて、これまで知っていた中で「最も政治的でない男」だったと述べている<ref name="Tate">{{Cite web|title=Dove 1949|url=https://www.tate.org.uk/art/artworks/picasso-dove-p11366|access-date=18 December 2020|website=Tate}}</ref>。しかし、[[1936年]]のスペイン内戦によりピカソは大きな影響を受け、政治に関心を持つようになり、その結果、[[1937年]]に『[[ゲルニカ (絵画)|ゲルニカ]]』を描いた。この作品を発表した後、ピカソは[[反ファシズム]]の象徴となった。[[第二次世界大戦]]が終わる頃には、ピカソは人道的な観点から[[フランス共産党|共産党]]に入党していた。ピカソにとっての[[共産主義]]は、第二次世界大戦やスペイン内戦での[[ファシズム]]を否定する別の道を示すものだった。しかし、ピカソの共産党への入党は、ある種の論争を引き起こした<ref name="Cole">{{Cite web|last=Cole|first=Ina|date=May 2010|title=Pablo Picasso: The Development of a Peace Symbol|url=https://www.arttimesjournal.com/art/reviews/May_June_10_Ina_Cole/Pablo_Picasso_Ina_Cole.html|access-date=18 December 2020|website=Art Times}}</ref>。1948年から1951年にかけて、ピカソは[[世界平和評議会]]に出席した。1950年に[[シェフィールド]]で開催された平和会議で講演を依頼されたピカソは「私は、死よりは生を、戦争よりは平和を支持する」と述べた<ref>{{Cite book|last=Penrose|first=Roland|title=Picasso 1881/1973|year=1973|location=London|pages=197-209}}</ref>。
 
== 作品 ==