「北狄」の版間の差分

編集の要約なし
編集の要約なし
編集の要約なし
 
== 殷周の時代 ==
殷晩期の地層から多数の青銅器や陶器が出土するなど殷前期からの生産力の発展が見られ、また多くの遺跡から殷様式の器物が見つかっており[[華夏族]]との交流が覗える。一方で殷・[[周]]時代は[[奴隷]]制の全盛時代でもあって、その供給源は主に戦争によるが、殷・周王朝は頻繁に周辺国へ侵攻し、両民族の間に激しい戦闘が度々起きていた事が史書の記述にも残る。特に周の時代に入ると大規模な戦争が繰り返し行われ<ref>『逸周書』には周の初期に数百の国を滅亡または服属させ、五千人を斬首・捕虜13000人を得たと記す</ref>、戦争によって翟人は関中などの西北地域から追われて、多くが東や北へ移動したとされる。
 
[[殷|殷王朝]]の伝説的な始祖である[[契 (殷)|契]]の母は、有娀(有戎)の娘で[[嚳|帝嚳]]の次妃であった[[簡狄]]である。簡狄は妹とともに玄丘で水浴びをしていたところ、[[ツバメ|玄鳥]]の卵を誤って呑んでしまい、その後に契が生まれた。有娀(有戎)の「[[戎]]」は西方の[[遊牧民]]を意味し、有娀(有戎)の娘である簡狄の「狄」は北方の[[狩猟|狩猟民]]を意味する<ref name="岡田英弘"/>。[[女神]]が野外の[[入浴|水浴]]の場で、天から降りてきた鳥の卵を呑んでに妊娠し、男の子を生むというのは、[[北アジア]]の狩猟民や遊牧民に共通の始祖伝説であり、殷人が北方の狩猟民「北狄」の出身であることは疑いなく、殷が実在した[[都市国家]]であったことは確かであるが、[[モンゴル高原]]から[[山西高原]]を通って南下し、[[河南省|河南]]の[[夏 (三代)|夏国]]を征服したとみられる<ref name="岡田英弘">{{Cite book|和書|author=[[岡田英弘]]|date=2005-09-16|title=だれが中国をつくったか|series=[[PHP新書]]|publisher=[[PHP研究所]]|isbn=978-4569646190|page=28-29}}</ref>。