「エティエンヌ=ニコラ・メユール」の版間の差分

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[[1778年]]にさる将校に連れられ[[パリ]]に行き、[[チェンバロ|クラヴサン]]奏者のエデルマンに入門する。[[1781年]]の最初の器楽曲の試みが成功しなかったため、声楽曲や劇音楽に注意を向けるようになる。修業中のメユールに、[[クリストフ・ヴィリバルト・グルック|グルック]]が助言を与えたとも言われている。
 
グラントペラ座(Grand Opéra)に自作の[[歌劇]]《コラとアロンソ''Cora et Alonzo'' 》を上演してもらおうと6年がかりで骨を折るも幾度も挫折。だが、[[オペラ・コミック座]]に《ウフロジーヌとコラダン''Euphrosine et Coradin'' 》を提出すると、受理され[[1790年]]に上演され、たちまちメユールの名声を確固たるものとした。歌劇《ストラトニース''Stratonice'' 》は[[1792年]]の上演で熱狂を巻き起こした。後にこの作品は、[[ルイ=エクトル・ベルリオーズ|ベルリオーズ]]の高評を得、とりわけ[[序曲]]が称賛された。その後のオペラ上演はあまり成功しなかったが、最も優れた3作《アンリ4世の青春時代''La jeunesse d'Henri IV'' 》《ユータール''Uthal'' 》《ジョゼフ''Joseph'' 》によって、[[オペラ]]作曲家としての名声はさらに高まることとなった。《ユータール》は[[ヴァイオリン]]なしの[[オーケストラ]]のために作曲されている。
 
メユールは、[[パリ音楽院]]の四人の督学官のうちの一人となるが、この任務はつねに、早期学習の不十分さを自覚させるものだった。《ティモレオン''Timoléon'' 》と《アリオダン''Ariodant'' 》([[1799年]])と、《ビオン''Bion'' 》が相次いで発表された。[[ルイジ・ケルビーニ|ケルビーニ]]との共作で《エピキュロス''Epicure'' 》を作曲。次のオペラ《''L'irato, ou l'emporté'' 》([[1801年]])は、第一[[総統]][[ナポレオン・ボナパルト]]に献呈されるも上演は失敗に終わった。