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== 概要 ==
1927年、[[ハインリヒ・フォン・トライチュケ]]の「ユダヤ人たちはわれらの禍である Die Juden sind unser Unglück!」という言葉が各ページの下段に引用されてから、その反ユダヤ主義の色彩を強めていった。ドイツ民族における反ユダヤ主義は、とりわけ「ユダヤ的・共産主義的(ポルシェヴィキ的)世界観」に対する警鐘で、いわゆるユダヤ人によると目される犯罪行為に対する赤新聞的なでっち上げ記事から煽り立てられていったものである。それに際しては中世から伝播されてきたようなユダヤ人は小さな子どもを連れ去り人身御供にしてしまう([[血の中傷]])、などといった誰でもわかるような明らかなデマも大真面目に取り上げられた。こうした扇情的な記事が大見出しで、反ユダヤ的扇動的な著述家らによってまことしやかに広められた。加えてフィップス(Fips)こと{{仮リンク|フィリップ・ルプレヒト|en|Philipp Rupprecht}}らによる風刺画の様な挿絵も多く用いられ、折からの[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチ党]]の勢力伸長も手伝って、当時の人々の世論に大きく影響を及ぼした。読者からの投稿欄にも、一般読者から寄せられた数多くの密告や賛同の誹謗的な投書が掲載されていた。
 
1933年にナチ党が政権を獲得すると発行部数が飛躍的に増え、1938年には100万を超えて小学校の授業で教材として使われるまでに至った。同紙は[[アドルフ・ヒトラー]]のお気に入りであり欠かさず愛読していたが、一方でナチ党内部にもその煽情的な言動に対する反感は強く、[[ヘルマン・ゲーリング]]は「もともとそのうちの二・三号しか読んでいないが、部下や運転手・使用人には読ませない様にさせている。全く以って不愉快千万な新聞だ」<ref name="ゲーリング言行録165">[[金森誠也]]著『ゲーリング言行録 :ナチ空軍元帥大いに語る』([[荒地出版社]]、[[2002年]])165頁</ref>とまで言い切っていた。このためシュテュルマー紙はゲーリング夫妻に対する個人攻撃を掲載し、結果としてシュトライヒャーがナチ党で失脚する一因となっている。また[[アウシュヴィッツ強制収容所]]の所長[[ルドルフ・フェルディナント・ヘス|ルドルフ・ヘス]]でさえシュテュルマー紙の低俗さを毛嫌いし、1936年の[[ベルリンオリンピック]]開催時には[[キオスク]]での販売が一時的に中止させられるほどだった。