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[[file:COLLECTIE TROPENMUSEUM Het schip de Imhoff ligt op de rede van Donggala. TMnr 60008284.jpg|thumb|280px|ファン・イムホフ
'''ファン・イムホフ号事件'''(ファン・イムホフごうじけん)とは、[[第二次世界大戦]]中の[[1942年]]1月に、[[オランダ]]
== 背景 ==
第二次世界大戦前期の[[1940年]]5月、ドイツ軍がオランダに侵攻すると、[[オランダ領東インド]]に在住のドイツ人はオランダの植民地政府当局によって全員が抑留された。ドイツ人は収容所に集められて、厳しい処遇を受けた。
[[1941年]]12月に
護送用船舶の設備は不十分なものであった。オランダ当局は、大量の人員輸送に適した[[客船]]などを
== 事件経過 ==
1942年1月、「ファン・イムホフ
1月19日夕刻、シボルガ西方110[[海里]]付近の洋上で、「ファン・イムホフ
ドイツ人たちは、オランダ人たちが退船した後に自力で脱出を試みた。2時間後に船が沈没するまでに、なんとか海面に降ろすことができた救命ボート1隻と作業用の小型ボート1隻、筏6隻で計201人が船を離れた。ほかの277人は溺死した。筏のうち4隻も、翌朝までには沈んでしまった。
「ファン・イムホフ
その後、ドイツ人遭難者のうち筏に乗った者はすべて行方不明となり、ボートに乗った者だけが1月23日に[[ニアス島]]へと漂着した。生存者は66人で、再びオランダ植民地政府によって拘束された。
== 戦後の責任追及 ==
事件はオランダ政府と軍によって隠蔽された。戦後の1953年、ドイツ人
1964年、事件を題材としたテレビ・ドキュメンタリー番組が制作された{{where|date=Jan 2021}}が、[[検閲]]により放送できなかった。しかし、担当記者が調査結果をオランダの新聞『[[ヘット・パロール]]』紙([[:nl:Het Parool|nl]])で発表したことから、ドイツでも『[[デア・シュピーゲル]]』誌で取り上げられ、事件はようやく広く知られるようになり、両国で大きな反響を呼んだ。
以後、オランダの[[歴史家]]や政府によって調査が行われた。[[1984年]]にオランダ国立戦争記録研究所が公刊した記録では、本事件は「オランダ史における汚点」と評されている。
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