「ルドルフ・コーリッシュ」の版間の差分

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[[1919年]]より作曲を[[アーノルト・シェーンベルク]]に師事したことから、間もなく[[私的演奏協会|ウィーン私的演奏協会]]("''Verein für musikalische Privataufführungen in Wien''")の活動に参加させられる。これがきっかけとなって、シェーンベルク作品の上演を目的として「ウィーン弦楽四重奏団 "''Wiener Streichquartett''"」を旗揚げし、多くのリハーサルでシェーンベルク自身の監修を受けた。一方で同団体は、シェーンベルクの指導方針に従い、古典的なレパートリーの演奏にも取り組んだ。[[1927年]]までに[[コーリッシュ四重奏団]]に改称。シェーンベルクのほかにも、[[アルバン・ベルク]]や[[アントン・ヴェーベルン]]、[[ベラ・バルトーク]]からも新作を提供されるようになる。
 
[[第2次世界大戦]]の勃発までに[[ニューヨーク]]に上陸したコーリッシュは、当初はコーリッシュ四重奏団の維持に努めようとするも失敗し、ニュー・スクール大学の教員として、講座「演奏(音楽の意味の実現)」を担当する。また[[オットー・クレンペラー]]と共同で、学内アンサンブル(室内オーケストラ)を設立し、その最初の演奏会で、バルトークの《[[弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽]]》や[[イーゴリ・ストラヴィンスキー|ストラヴィンスキー]]の《[[兵士の物語]]》、シェーンベルクの《[[室内交響曲]]第1番》の米国初演を実現させる。この間に別の室内アンサンブルを準備して、作曲者自身の指揮による《[[月に憑かれたピエロ]]》の録音に参加、さらに論文『[[ベートーヴェン]]の音楽における速度と性格 "''Tempo and Character in Beethoven's Music''" 』を執筆し、米国音楽学会ニューヨーク支部に提出。同論文は、後に学術雑誌『ミュージカル・クォータリー "''Musical Quarterly''"』誌に掲載された。ちなみにこの論文は、ベートーヴェンのオリジナルの[[メトロノーム]]記号の意義を現代に甦らせた、最初の英語論文の一つであった。
 
[[1944年]]に[[ウィスコンシン大学]]に招かれて[[マディスン]]に行き、正教授に迎えられると同時に、[[プロ・アルテ弦楽四重奏団]]のリーダーに就任する。同団体は、おそらく米国で最初の大学常駐アンサンブルだったらしい。[[1950年代]]には再びソリストとしてヨーロッパで演奏旅行を行い、[[ダルムシュタット夏季現代音楽講習会]](''Internationale Ferienkurse für Neue Musik in Darmstadt'')の講師陣を、旧友[[エドゥアルト・シュトイアーマン]]や[[テオドール・アドルノ]]らとともに引き受ける。[[1956年]]に1年間[[ダルムシュタット]]に暮らしたのを除けば、[[1966年]]に定年退職を迎えるまでマディスンに過ごした。その後は[[ガンサー・シュラー]]に招かれてボストンのニューイングランド音楽院の[[室内楽]]科の主任教授を担当し、亡くなるまでその地位にあった。[[1974年]]の夏から[[1977年]]まで、ウィーン郊外の[[メートリンク]]にて例年開催の「シェーンベルク講習会」でも室内楽演奏の教鞭を執った。