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{{出典の明記|date=2022年5月10日 (火) 10:51 (UTC)}}
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|conflict=第一次奴隷戦争
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|combatant2=シケリアの奴隷
|commander1=[[プブリウス・ポピッリウス・ラエナス]]、<br>[[ガイウス・フルウィウス・フラックス]]、<br>[[ルキウス・カルプルニウス・ピソ・フルギ]]、<br>[[プブリウス・ルピリウス]]
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'''第一次奴隷戦争'''(だいいちじどれいせんそう)は、[[紀元前135年]]から[[紀元前132年]]にかけて発生した[[共和政ローマ]]に対すおけ[[奴隷]]の反乱であるが、失敗に終わった戦争。[[シキリア属州]](現在の[[シチリア]])の[[エンナ]]の[[奴隷の反乱]]による蜂起がきっかけであり、元奴隷で自身を預言者と称した{{仮リンク|エウヌス([[:|en:|Eunus|en]])}}と[[キリキア]]出身で軍事指揮官としてエウヌスを支えた{{仮リンク|クレオン([[: (古代ローマ)|label=クレオン|en:|Cleon (Roman rebel)|en]])}}反乱の主たる指導者であった。いくつかの小さな戦闘で奴隷軍は勝利したが、ローマから大軍が送り込まれて鎮圧され敗北した。
 
== 発端 ==
[[第二次ポエニ戦争]]で[[カルタゴ]]が敗北すると、シチリア島全体がローマの[[シキリア属州]]となった([[シキリア属州]])。カルタゴ人が残した土地は、イタリアからきたローマの投機家が安く買い上げた。カルタゴ側についたシケリア人の土地は元の持ち主が処刑されるか逃亡した後、ローマが没収していた。
 
ローマ側について戦ったシケリア人もまた、同胞の苦労を尻目に、豊かになっていた。[[シケリアのディオドロス]]によれば、政治的影響欲のある奴隷の所有者達、多くの場合[[エクィテス]](騎士階級)は、奴隷達に十分な食料や服飾品を与えていなかった<ref>Photius' and Constantine Porphyrogennetos' summaries of Diodorus, quoted by Brent D. Shaw, ''Spartacus and the Slave Wars'', pp. 80-81 and 88-89.</ref>。奴隷の中には、生き残るために盗賊になるものも多かった<ref>Photius' and Constantine Porphyrogennetos' summaries of Diodorus, quoted by Brent D. Shaw, ''Spartacus and the Slave Wars'', pp. 80-81 and 88-89.</ref>。貧しいシキリア人も苦しんでいた。緊張関係が数十年間に渡り続き、ついには奴隷の反乱が勃発した。
 
== 奴隷戦争 ==
奴隷の反乱軍の指導者は[[シリア属州|シリア]]出身のエウヌス([[:en:Eunus|en]])であった。彼は影響力のある[[預言者]]であり、さらに[[召喚魔術|召喚魔術師]]と見なされていた。
 
エウヌスがまだ奴隷であったとき、彼の主人は彼を[[饗宴]]の際の芸人として雇っていた。彼は火を吐いたり、優れた手品を行うことができた。彼は演技を行う間、聴衆にはユーモアに聞こえるようにではあるが、今にシキリア社会が逆転し、貴族は殺されるか奴隷になり、自身は王になるであろうと、言い続けていた。チップをくれた人には、彼が王になったら救われるであろうと約束した。実際に反乱が起こると、エウヌスは何人かの命を救っている。
 
シケリアのディオドロスによると、反乱奴隷の軍は20万に達したと述べるが<ref>[[:en:スパルタクス|Photius]]' summary of Diodorus, quoted by [[:en:Brent D. Shaw|Brent D. Shaw]], ''Spartacus and the Slave Wars'', p. 85.</ref>、これは成人男子だけではなく女性も子供も含んだ数であろう。[[ティトゥス・リウィウス]]と[[オロシウス]]は、反乱軍を7万と推定している<ref>The [[:en:Periochae|Periochae]] and Orosius, quoted by Brent D. Shaw, ''Spartacus and the Slave Wars'', pp. 95 and 97.</ref>。
 
エウヌスが実際に戦闘に参加したかは、ほとんど知られていない。敵であるローマが彼の記録を残しているが、戦闘での勝利に関しては、シリア出身のクレオンの手柄であるとしている。しかしエウヌスは戦争の期間を通して指導者の地位を保っており、極めて有能な人物であったに違いない。最後にはクレオンは戦死し、エウヌスは捕虜となって[[モルガンティナ]]へと護送された。しかし処される前に彼は死んだ。
 
この戦争は紀元前135年から紀元前132年まで続いた。これはローマに対する三度にわたる[[奴隷の大規模反乱戦争]]の最初のものであった。最後の反乱戦争は最も有名で、[[スパルタクス]]が率いたものである。
 
== 脚注 ==