「ニコラス・バトラー」の版間の差分

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マレイは、かなり早い時期から平和運動に積極的に係わっていた。とりわけ熱心だったのは、国際理解というテーマである。彼には、政府から総督、大使、さらには外務長官などの職の提供があったが、彼はこれらをすべて固辞している。1907年、彼はフランスの政治家[[エストゥルネル・ド・コンスタン]]が創設した[[国民的関心の防衛と国際的和解のための委員会]]のアメリカ支部を創設する。1907年-1912年バトラーは、[[常設国際司法裁判所]]の創設のための準備に参加する。常設国際司法裁判所は、1921年になってデン・ハーグに設けられた。
 
1910年アメリカの実業家[[アンドリュー・カーネギー]]が、{{仮リンク|[[カーネギー国際平和基金|en|Carnegie Endowment for International Peace}}]]を創設し、これに1,000万ドルの基金を提供した。バトラーはこの準備のために大きく関与する。この財団は、以後、国際的な平和活動のため最も重要な支柱として寄与していくことになる。バトラーはワシントンD.C.で、この財団の事務長に就任し、1925年以後は理事長となる。 その役割としては、彼は彼を外部の相談相手として利用したアメリカ大統領の相談相手という役もあった。時には外交官のようなこともやってのけ、それには、ソ連の共産党書記長[[ウラジーミル・レーニン]]やイタリアの首相[[ベニート・ムッソリーニ]]との会談のようなものもある。第一次世界大戦の後、新設された国際連盟にはバトラーは懐疑的な立場をとった。
 
1927年アリステッド・ブリアンが発表した政治的な手段としての戦争の追放宣言にバトラーは感銘し、アメリカをこれに賛成する側に引き込んだ。この件により、彼は1928年に締結されたケロッグ・ブリアン条約の最も重要な推進者となったのである。