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{{Otheruses|予想一般|[[競馬]]における予想|予想 (競馬)}}
'''予想'''(よそう、{{lang-en-short|expectation, forecast, conjecture}})とは、私たちが何かをするときに、意識的あるいは無意識的に、先の見通しについて想い描くことである{{Sfn|板倉聖宣|1955|p=3}}。辞書的な意味としては、「[[未来]]のことについて、あらかじめ見当をつけること」<ref name="daiji">大辞泉</ref>。「まだわからないことを[[想像]]すること。」とされているが、これらも「先の見通しについて想い描くこと」の一つである。
'''予想'''(よそう、{{lang-en-short|expectation, forecast, conjecture}})とは、
*[[未来]]のことについて、あらかじめ見当をつけること<ref name="daiji">大辞泉</ref>。
*まだわからないことを[[想像]]すること。
 
== 概説 ==
古代ギリシャの哲学者[[ヘラクレイトス]]は、
予想とは、未来のことについて、あらかじめ見当をつけることである。予想したとおりのことが起きた場合、「予想が当たった」などと言う。
:予想しなければ予想外のものは見いだせないだろう。それはそのままでは捉えがたく、見いだしがたいものなのだから。
と述べたという{{Sfn|板倉聖宣|1955|p=3}}。
 
私たちは何かをするにしても先の見通しがなければうまくできないし、ただ漠然と自分の未来について思い巡らしているときも予想している。このように予想というものは私たちの日常茶飯事のものであって、私たちはいつも予想ができるだけ当たるように努力してる{{Sfn|板倉聖宣|1955|pp=3-4}}。予想とは、未来のことについて、あらかじめ見当をつけることである。予想したとおりのことが起きた場合、「予想が当たった」などと言う。予想どおりのことが起きないことを「予想外」と言う<ref name="daiji" />。
予想どおりのことが起きないことを「予想外」と言う<ref name="daiji" />。
 
==法則性と予想==
{{要出典範囲|予想を具体的に述べて、それが正しいと断ずるのを[[予言]]という|date=2013年5月}}。
私たちは経験を積むに従ってだんだんと予想が当たるようになる。私たちが一度その問題や対象に対する性質をつかんでしまうと、他人からは魔法と思われるように見事に予想が当たるようになる。古代の日食の予言等はいつもそのようにして行われた{{Sfn|板倉聖宣|1955|p=6}}。これは経験を積むに従ってその問題・対象の法則性をよく理解するようになるからで、これは私たちの意志とは独立にその問題・対象の変化・発展の法則性があることを示している。私たちがその法則性の認識を深めるにつれて確かな予想を立てることができる。このようなことは自然科学だけに限られることではない{{Sfn|板倉聖宣|1955|p=6}}。このことは、元来、予想というものの基礎が客観的なものであって、たんなる当てずっぽではないちうことを意味している{{Sfn|板倉聖宣|1955|p=6}}。
 
==無意味な予想==
数学などの分野では「予想」という語について独特の特殊な用法がある。
その対象自身が必然的な法則性を持たない場合、予想は元来無意味であり、当てずっぽにならざるをえない。たとえば「どの宝くじが当たるか」という問題がそのような対象であり、もし「どの宝くじが当たるか」を予想できるとしたら、それは「宝くじ」ではない{{Sfn|板倉聖宣|1955|pp=6-7}}。このように「無意味な予想」というものも明確に区別する必要がある{{Sfn|板倉聖宣|1955|p=7}}。
 
==予想と事実==
== 科学哲学の場合 ==
予想は、問題・対象の性質を理解することで成り立つのであるから、その問題に関係あるさまざまな事実をもとにして、その問題の性質を調べなくてはならない。このことは多くの場合、無意識的であるにしろ、誰がどんな予想を立てるときでも行っている認識活動である{{Sfn|板倉聖宣|1955|p=7}}。
[[科学哲学]]においては、一般に受け入れられた事実を基にして検証しうる命題を[[仮説]]と呼ぶ<ref>{{要出典範囲|定理、[[公理]]、[[原理]]といったものもここに含まれる|date=2013年5月}}</ref>のに対し、不確定な推測に基づいて正しいと推定されている命題を「予想」と呼ぶのが普通である{{要出典|date=2013年5月}}。この用法は[[カール・ポパー]]に始まる{{要出典|date=2013年5月}}。
 
私たちが予想を誤るのは、無意識のうちに対象に持っていた先入観が誤りだった場合や、問題や対象自体の表向きの現象と本質が異なる場合である{{Sfn|板倉聖宣|1955|p=8}}。たとえば、私たちには太陽が毎日地球の周りを一周しているように見えるが、それをそのまま「事実」とするならそれは誤りである。これは歴史上長くみられた誤りであるが、それは何も錯覚によるものではなく、私たちが地球上で生活して太陽を観察している事実によるのであって、対象と自分の両方に誤りに陥る要素があるのである{{Sfn|板倉聖宣|1955|p=8}}{{refnest|group="注"|板倉聖宣はこれを「自然によるデマ宣伝」と呼んだ。}}。
== 自然科学の場合 ==
{{出典の明記|section=1|date=2013年5月}}
一般に自然科学では[[観察]]や[[実験]]によって得られた結果を、既知の[[法則]]などを用いて説明しようとするが、それが不可能な場合、新たな法則や何らかの存在を考えなければならないことがある。その場合、それを探し、あるいは確認する新たな実験や観察を行い、それを確かめるのが筋ではある。しかし、それが困難な場合、この仮説を、その点について未知のままに想定して世に問う場合がある。その際に、「この考えが正しければ、このような現象(事物)が発見されるであろう」というような、その仮説から導き出せる未だ知られていないことへの'''予想'''をつけることがある。その予想が的中した場合、その仮説は大きな信用を得ることになる。
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「予想」を主題とした出典であり、下記内容が書いてある、と検証できる出典が必要。
{{要出典|date=2013年}}
 
私たちは世界や日本社会の断片的事実を目で見たり人から聞いたりして知ることはできるが、社会全体の仕組みやその本質を直接見ることはできない。1つ1つの事実は直ちにそれが社会ではないからである。天文学者が知る事実は地球から見た一面的な情報なのであって、それがそのまま宇宙の構造を見せているわけではない。原子の存在も直接をそれを見て知ったわけではない{{Sfn|板倉聖宣|1955|pp=10-11}}。
例えば[[化学]]の分野では、[[元素]]の[[周期表]]を考案した[[ドミトリ・メンデレーエフ]]は、実は当時の知識では彼の考えた周期表が成立しないことを知っていたが、これをいくつかの未知の元素があるためと考え、それを補って周期表を作り上げた。そしてその表を元に、彼の想定した未知の元素に対して仮の名を与え、その性質を予想してそれを含めて発表した。その後発見されたそれに相当する元素が彼の予想によく当てはまった(例えば[[ゲルマニウム]])ために、彼の説は認められるようになった。また、当時ほぼ同時に同様の説を発表したメイヤーについては、完全に彼の陰に入ってしまった。-->
 
私たちが、直接認識不可能な「社会全体」、「宇宙の構造」、「原子の存在」などを認識するようになったのは、予想を立てて調べていくことによって初めて明らかになったのである{{Sfn|板倉聖宣|1955|pp=12-13}}{{Sfn|板倉聖宣|1966}}{{refnest|group="注"|これを「仮説実験的認識論」という。}}。
{{See also|仮説実験的認識論}}
 
==科学教育における予想==
[[仮説実験授業]]では、与えられた問題に対して必ずあらかじめ予想を立てさせる。予想のない実験や観察は単なる作業でしかなく{{refnest|group="注"|この意味では従来の理科の教科書等の実験や観察は単なる「作業」でしかないと板倉はいう。}}、私たちに認識をもたらさない{{refnest|group="注"|板倉聖宣はこれを「見れども見えず」と呼んだ。}}。対象に対する予想を持つことによって、初めて私たちは「目的意識的に対象を見る」ことができ、実験結果によって対象への認識を新たにできる{{Sfn|板倉聖宣|1974}}。
{{See also|仮説実験授業}}
 
== 数学における予想 ==
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== 競馬 ==
{{Main|予想 (競馬)}}
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== 参考文献 ==
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== ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|group="注"|}}
<references/>
==出典 ==
{{reflist|2|30em|}}
 
== 参考文献 ==
*{{Cite journal|和書|author=[[板倉聖宣]]|title=予想論|journal=科学と方法|publisher=季節社|year=1969|pages=18|ref={{Sfnref|板倉聖宣|1955}}}}(初出1955年)
*{{Cite journal|和書|author=[[板倉聖宣]]|title=科学的認識の成立過程|journal=科学と方法|publisher=季節社|year=1969|pages=203-218|ref={{Sfnref|板倉聖宣|1966}}}}(初出『理科教室』1966年6月号)
*{{Cite journal|和書|author=[[板倉聖宣]]|title=仮説実験授業と授業書の一般論|journal=仮説実験授業-授業書〈ばねと力〉によるその具体化|publisher=仮説社|year=1974|pages=22-29|ref={{Sfnref|板倉聖宣|1974}}}}
 
== 関連項目 ==
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* [[期待]]
* [[予言]]
*[[仮説実験的認識論]]
*[[仮説実験授業]]
 
{{Sci-stub}}
{{Mathlogic-stub}}
 
{{DEFAULTSORT:よそう}}