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'''陳 蕃'''(ちん はん、[[99年]]以前 - [[168年]])は、[[後漢]]の政治家。字は'''仲挙'''、汝南平輿(現在の[[]][[平輿県]]の人。子陳逸。『[[後漢書]]』に伝がある。
 
== 生涯 ==
祖父は[[河東郡 (中国)|河東]]太守の地位にあった。15歳のときに既に天下への志を有していた。郡に出仕し、孝廉となり、郎中になったが、母の喪のため官を退いた。喪があけると[[豫州]]刺史の[[周景]]に別駕従事として招かれたが、周景と意見があわなかったため、受けなかった。その後の官への誘いも断った。
 
太尉である[[李固]]からの招聘に応じ、議郎となり、[[楽安郡|楽安]]太守に転じた。楽安郡のある[[青州 (山東省)|青州]]刺史は[[李膺 (後漢)|李膺]]であり、みな李膺の前では一歩引いていたが、陳蕃だけが堂々としていた。郡に周璆という高潔の士がいたが、陳蕃だけが交流することができた。南昌の[[豫章郡|豫章]]太守の時に[[徐稚]]という隠士を崇敬し陳蕃はもともと賓客を好まなかったのだが徐稚のためだけに椅子一脚をあつらえ、彼が帰るとその椅子を片付けたという。また、趙宣という人物が孝で評判であったが、陳蕃は趙宣が服喪期間中に5人の子をもうけていたことを咎め、かえって罪に下した。
 
大将軍[[梁冀]]は陳蕃の評判を聞き、使者に詐言を用いさせて陳蕃を招こうとしたが、陳蕃は使者を笞打ちにして殺した。陳蕃は左遷されたが、まもなく尚書となった。中央でも直言を止めなかったため、豫章太守に左遷された。豫章でも高潔で人を寄せ付けない性格は変わらなかった。まもなく尚書令として中央に復帰した。
 
その後、[[大鴻臚]]となったが、[[白馬県|白馬]]県令の[[李雲 (後漢)|李雲]]が直諫して[[桓帝 (漢)|桓帝]]の不興を買って誅殺されそうになると、陳蕃は李雲を弁護して免職となった。
 
田舎に戻っていたが、議郎として再び召しだされ、光禄勲となった。封賞の濫発や狩猟遊びの流行を厳しく諌めたが容れられなかった。五官中郎将の[[黄琬]]と共に選挙を掌ったが、権力者におもねることをしなかったため、讒言を受け免職となった。
 
僕射として復帰、太中大夫となり、やがて[[楊秉]]の後任の太尉となった。陳蕃は固辞したものの許されなかった。
 
河南尹となっていた[[李膺 (後漢)|李膺]]らが[[宦官]]と対立し弾圧を加えられると([[党錮の禁]])、陳蕃は李膺らを擁護し、諫言を続け、ついに免職された。
 
皇后[[鄧猛女]]が桓帝に廃位された後、陳蕃は[[竇妙]](大将軍の[[竇武]]の娘)の出自の高さを理由に、竇妙を新たな皇后に推した。桓帝が崩御すると、陳蕃は皇太后となった竇妙に召され、[[太傅]]録尚書事に任じられる。桓帝の後継として劉宏([[霊帝 (漢)|霊帝]])を迎え竇武と協力し政治を執った。[[侯覧]][[曹節 (宦官)|曹節]]といった[[宦官]]勢力を除こうとするが、宦官勢力の逆襲を受け竇武は誅殺され、陳蕃は仲間を80人ほど連れて抗議のため参内し宦官の[[王甫 (宦官)|王甫]]を罵倒しつつ捕縛された。投獄されると即刻殺害された。年齢は70を超えていたという。
 
子の陳逸は陳蕃の友人の朱震に匿われ、後に冀州刺史[[王芬]]の霊帝廃立計画に参加している。
 
== 参考資料 ==
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{{Normdaten}}
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{{DEFAULTSORT:ちん はん}}
[[Category:順帝期の人物]]
[[Category:駐馬店出身後漢桓帝期の人物]]
[[Category:後漢霊帝期の人物]]
[[Category:168年没]]
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