「汎ゲルマン主義」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Reverted 1 edit by 2A00:23C7:DC8F:3901:6063:6735:514B:6E8F (talk) (TwinkleGlobal)
タグ: 取り消し
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Bot作業依頼: 神聖ローマ皇帝記事等の改名に伴うリンク修正依頼 (フランツ・ヨーゼフ1世 (オーストリア皇帝)) - log
7行目:
== 経緯 ==
{{出典の明記|section=1|date=2019年2月}}
パン=ゲルマン主義は、19世紀中葉に行われた「[[ドイツ統一]]」の理念の拡大であった。ドイツ人の[[民族主義]]の昂揚によって、「ドイツ語響く所がドイツである」とまで言われた。このパン=ゲルマン主義に協調したのは、[[オーストリア=ハンガリー帝国|オーストリア]][[皇帝]][[フランツ・ヨーゼフ1世 (オーストリア皇帝)|フランツ・ヨーゼフ1世]]と[[スウェーデン=ノルウェー|スウェーデン]]国王[[オスカル2世 (スウェーデン王)|オスカル2世]]であった。
 
オスカル2世は、当時[[ノルウェー]]を[[同君連合]]とし、[[デンマーク]]を含めた「プロイセン・スカンディナヴィア・バルト中立連合」なるものを構想していたが、デンマークや自国政府の反対により頓挫し、ゲルマン主義から離れてしまった。要するにオスカル2世は、北方[[ノルマン人]]も[[ドイツ人]]と同じ[[民族]]であると考えていたが、すでに[[中立主義]]が根付きつつあった[[北欧諸国]]には受け入れられなかったのである。一方オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は、オスカル2世の様な連合構想こそもたなかったが、ドイツ帝国との連携を重視し、[[バルカン半島]]への関与を深める為にドイツの武力を利用したと言える。さらに二重帝国内においては、支配民族ドイツ人を遥かに上回る数の[[スラヴ人|スラヴ系]]住民を抱え、彼らの[[汎スラヴ主義]]への傾倒に苦慮していたという事情もあった。結局、フランツ・ヨーゼフ1世は、ハプスブルク帝国の死守とバルカン問題の狭間で身動きが取れず、ドイツ帝国と共に第一次世界大戦に引きずり込まれ、ハプスブルク帝国の終焉と言う結末を迎えてしまうのである。