「浜松事件 (抗争事件)」の版間の差分

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== 事件の発端 ==
[[第二次世界大戦|戦]]後、市内の国際マーケットは[[在日韓国・朝鮮人|在日朝鮮人]]が押さえていたが、[[闇市]]は[[的屋]]の[[國領屋一家|関東霊岸島桝屋一家分家(服部)]]が押さえていた。県議会議員となった服部治助の「服部組」であった。在日朝鮮人らは、[[在日本朝鮮人連盟]]の威光を背景に、地元の[[自治体警察 (旧警察法)|自治体警察]]であった[[浜松市警察]]の介入を許さず、禁制品を公然と売り捌いていた。服部組の方は合法な物品しか売っていなかったため、客足が奪われることになり、服部組は朝鮮人に反感をもっていた。1948年3月には、浜松市警の巡査が賭博の現行犯で朝鮮人を逮捕しようとしたところ、返り討ちにあって負傷する事件が発生。服部組は、その巡査を救出して近くの病院に収容、病院周辺を警護して朝鮮人の来襲を阻止するなど、一触即発の事態を迎えつつあった。
 
県議会議員となった服部治助の跡を継いでいたのが「小野組」であった。
 
在日朝鮮人らは、[[在日本朝鮮人連盟]]の威光を背景に、地元の[[自治体警察 (旧警察法)|自治体警察]]であった[[浜松市警察]]の介入を許さず、禁制品を公然と売り捌いていた。
 
小野組の方は比較的合法な物品しか売っていなかったため、客足が奪われることになり、小野組は朝鮮人に反感をもっていた。
 
1948年3月には、浜松市警の巡査が賭博の現行犯で朝鮮人を逮捕しようとしたところ、返り討ちにあって負傷する事件が発生。
 
小野組は、その巡査を救出して近くの病院に収容、病院周辺を警護して朝鮮人の来襲を阻止するなど、一触即発の事態を迎えつつあった。
 
== 事件の概要 ==
4月4日夕方、朝鮮人が小野組組長宅を襲撃したことで、朝鮮人・小野服部組・浜松市警の三つ巴の抗争が勃発した。小野服部組は直ちに報復すべく会合を開いたが、朝鮮人はその会合場所を襲い銃撃した。浜松市警も抗争を鎮圧するために出動したが、朝鮮人は伝馬町交差点でこれを迎えうち、警察との間で銃撃戦となった。5日以降の数日間の戦闘で死者数人・負傷者約300人を出した。浜松市警は駐留軍岐阜軍政部に憲兵の出動を要請し、400人の兵士が浜松に派遣されたことで漸く沈静化した。
 
浜松市警も抗争を鎮圧するために出動したが、朝鮮人は伝馬町交差点でこれを迎えうち、警察との間で銃撃戦となった。5日以降の数日間の戦闘で死者数人・負傷者約300人を出した。浜松市警は駐留軍岐阜軍政部に憲兵の出動を要請し、400人の兵士が浜松に派遣されたことで漸く沈静化した。
 
== その後の顛末 ==
この事件により、朝鮮人への評判は地に堕ち、逆に小野服部組は浜松市民有志から50万円(当時)の見舞金が送られた。同年8月4日、[[静岡地方裁判所]]浜松支部は17人に懲役6ヶ月~4年を言い渡した。
 
== 参考文献 ==