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[[Image:Étienne Marcel.jpg|thumb|250px|エティエンヌ・マルセルの銅像]]
'''エティエンヌ・マルセル'''(Étienne Marcel, [[1315年]] - [[1358年]])'''は、[[フランス王国]]の市民指導者、[[パリ]]市長。[[百年戦争]]の間に一時的にパリを支配下に置いた。後世からは'''中世のダントン'''と呼ばれる。
 
== 生涯 ==
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当時のフランスは百年戦争のさなかにあったが、フランス国王[[ジャン2世 (フランス王)|ジャン2世]]は対英戦費調達のために[[三部会]]を1355年に招集した。この際に、エティエンヌは国王と対立的な立場をとり、税収を管理する委員会の設置を提案した。
 
1357年にジャン2世が[[ポワティエの戦い]]で捕虜とされると、エティエンヌは租税徴収・軍隊召集・休戦調印などに関して三部会の承認の必要性などの国政改革を骨子とする「大勅令」の作成に中心的役割を果たす。この際に、「大勅令」の尊重を拒否する王太子兼摂政のシャルル(後の[[シャルル5世 (フランス王)|シャルル5世]])と対立し、王位を狙っていた[[ナバラ王国|ナバラ]]王[[カルロス2世 (ナバラ王)|カルロス2世]](エヴルー伯シャルル)がアルルの城から脱獄するとこれと協力して、王太子の追い落としを図った。
 
王太子シャルルがパリを離れると、エティエンヌはパリの防衛を固めるとともに、1358年には[[ジャックリーの乱]]の指導者ギョーム・カルルと提携した。しかし、この反乱が6月に鎮圧されると、エティエンヌの人気と勢力は瓦解し、[[フランドル]]やさらには敵国であった[[イングランド]]の支援をも求めようとしていた。最期の時期には、当初の目的意識から外れて自身を王とし、ナバラ国王カルロス2世の利益を支援しようというものに変わっていたという。7月に仲間である商人に暗殺された。
 
== 関連作品 ==
*『'''双頭の鷲'''』 (歴史小説)  [[佐藤賢一]](著)
 
[[Category:フランス史の人物|まるせる えていえんぬ]]
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[[en:Étienne Marcel]]