「孝文王」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
32行目:
後に異人は秦が昭襄王49年([[紀元前258年]])から昭襄王50年([[紀元前257年]])にかけて趙の首都邯鄲を攻めた際に処刑されかけたが呂不韋の手引きで邯鄲を脱し、秦に帰国。華陽夫人と面会して名を子楚と改名した<ref>[[戦国策]] 秦策</ref>。
 
昭襄王56年([[紀元前251年]])閏9月<ref>『[[睡虎地秦簡]]』編年紀による。</ref>、父の昭襄王が去し、安国君が孝文王となり、華陽夫人が華陽后、子楚が太子となった。また母親の唐八子に唐太后を諡号。
 
孝文王元年([[紀元前250年]])10月、父の喪が明けて正式に即位したが、3日後に53歳で薨去した。