「3つの世界論」の版間の差分

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3つの世界論は、それまで[[社会主義]]陣営内でソビエト連邦と対立し、中国共産党と連携していた一部の反[[修正主義]]的政治勢力や政治組織を幻滅させることになった。特に[[アルバニア]]では[[エンヴェル・ホッジャ]]の率いた[[アルバニア労働党]]が、3つの世界論と[[ソビエト連邦共産党]]の立場の両方に反対する[[イデオロギー]]的立場に立つようになった。[[1976年]]にホッジャは毛沢東の葬儀に出席するも後継者の[[華国鋒]]と鄧小平らがさらに3つの世界論に基づいた外交を展開したことに対して中国を「第三世界の[[超大国]]」にさせることを企んでるとホッジャは非難した<ref>Hoxha, Enver (1982). Selected Works, February 1966 – July 1975. IV. Tirana: 8 Nëntori Publishing House. pp. 656–668.</ref><ref>Hoxha, Enver (1985). Selected Works. 5. Tirana: 8 Nëntori Publishing House. pp. 617–618, 697–698.</ref>。このため、それまで共同歩調を取っていた中国とアルバニア両国の[[共産党]]は、袂を分かつに至った([[中ア対立]])。
 
3つの世界論は、1982年9月開催の中国共産党第12回大会で説明無く取り消された。これ以後、中国共産党・中国政府の見解に3つの世界論は現れず、ソ連東欧の共産党・労働者党を修正主義と呼ぶこともなくなった。中共12回大会以後、中国はしだいにソ連東欧社会主義国と国家関係を正常化していったが、[[1980年モスクワオリンピック]]をボイコットして[[親米]]諸国とともに{{仮リンク|[[リバティ・ベル・クラシック|en|Liberty Bell Classic}}]]と[[1984年ロサンゼルスオリンピック]]に参加するなど西側寄りであり、ソ連との完全な関係正常化は1989年5月の[[ミハイル・ゴルバチョフ|ゴルバチョフ]]訪中までかかった。
 
== 脚注 ==