「賈充」の版間の差分

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[[甘露 (魏)|甘露]]2年([[257年]])には、[[司馬昭]]の命令で[[諸葛誕]]の様子を窺うために使者として赴き、諸葛誕に叛意がある事を司馬昭に報告している。
 
[[260年]]、皇帝[[曹髦]]が司馬氏から実権を奪い返すために兵を挙げた際は、この事変の収拾を意図した司馬昭の指示を受け、乱の鎮圧に赴いた。このとき、賈充は部下の[[成済]]に命じて曹髦を殺害させた([[甘露の変 (曹魏)|甘露の変]])。[[陳泰]]が、賈充を皇帝殺害の罪で極刑にすべきと司馬昭に訴えたというが、結局は実行犯の成済が罪を被せられ処刑されただけで、賈充は何の罪にも問われなかった。
 
[[景元]]5年([[264年]])、[[蜀漢の滅亡|蜀漢征伐]]の後に[[鍾会]]が反旗独立を謀ると、賈充は司馬昭の命令で討伐軍の指揮を執り[[関中]]に赴いたが、途中で鍾会の死が伝わってきたため沙汰止みとなった。