「ジョージ・アダムス・リーランド」の版間の差分

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これより先の1872年、札幌農学校の[[ウィリアム・スミス・クラーク|クラーク博士]]の紹介でアマースト大学を訪れた日本の文部大丞[[田中不二麿]]が体操場を見学した。[[エドワード・ヒッチコック]]博士、[[ユリウス・ハーレー・シーリー]]博士と面談した田中はここでの体操教育に深く感銘し、日本の学校でもアマースト式の体操を課そうと決意する。1876年、[[フィラデルフィア]]での博覧会視察のため再度訪米すると、学長となっていたシーリーに対し体操教師招聘の交渉を行った。その結果適任者として推薦されたのがリーランドだった。
 
リーランドは1878年(明治11年)9月6日に来日するとまず各地の学校を視察し、日本の学校体操は軍隊式の操の影響が強いと指摘した。同年10月には体操伝習所の開設が決裁され、初代主幹に[[伊沢修二]]が任命される。教授内容については当時アマースト大学で行われていた2種類の体操、器械を使った[[ドイツ体操]]いわゆる「重体操」と、[[ダイオ・ルイス]]が1860年に発表した女性・少年向けの「軽体操」のうち、日本の学校には軽体操が適すると判断した。翌年には軽体操で用いられる唖鈴([[鉄アレイ]])・球竿・棍棒・木環のほか、[[クロッケー]]・[[クリケット]]・[[ベースボール]]用具1式、握力器・胸囲巻尺・身長測器なども準備された。1879年(明治12年)4月7日、体操伝習所に第1期給費生25名が入学。そのうちの21名が2年後の1881年(明治14年)7月24日に卒業した。主に財政上の理由で契約が更新されなかったため、リーランドは同年7月31日付けで離職。日本を後にした。
 
その後の体操伝習所は1886年(明治19年)4月に廃止され、[[高等師範学校]]体操専修科に引き継がれた。軽体操はリーランドの通訳を努め自ら体操家となった[[坪井玄道]]によりその理論が構築され、「[[兵式体操]]」に対して「[[普通体操]]」と呼ばれるようになる。普通体操は1900年頃の[[スウェーデン体操]]の登場まで、学校体育の主たる形式としての地位を保った。
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