「川田正澂」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
→‎来歴・人物: 文章全体から若干の補正
5行目:
[[土佐国]](現・[[高知県]])生まれの[[士族]]出身。[[高知県立高知追手前高等学校|高知中学]]から選抜されて、東京[[日本橋]]箱崎町の旧[[土佐藩]]侯邸内・海南学校(現・[[高知県立高知小津高等学校]])に上京し進学。のち廃校となり、[[明治義塾]]に移り外国人から英語を学ぶ。1888年、文部省中学教育検定試験に首席合格。同年9月に、[[第三高等学校 (旧制) |第三高等中学校]](のちの[[第三高等学校 (旧制) |旧制三高]])教員となり、1904年(明治37年)8月~1909年(明治42年)4月にかけて仙台一中(現・[[宮城県仙台第一高等学校]])校長を経て、1909年(明治42年)に[[東京都立日比谷高等学校|東京府立第一中学校]](現・[[東京都立日比谷高等学校|都立日比谷高校]])校長に任ぜられる。
 
府立一中では前任者の勝浦鞆雄校長の「~べからず」教育からの脱皮を計り、生徒心得も5か条の簡潔なものとした。1913年(大正2年)3月~1914年(大正3年)6月の間に欧米視察旅行に出て、その時、[[大英帝国]]の[[パブリックスクール]]に深い感銘を得てから、その地の[[イートン校]]や[[ハーロー校]]、[[ラグビー校]]の諸校が、のんびりした紳士・人物の育成、自治自制をモットーとしていることに範をとったものであった。ただ当地のパブリックスクール諸校が、国王の恩賜、貴族・大富豪の寄付で成り立っていることに対して、士族出身の川田は、[[騎士道]]養成教育のバックボーンとしてそれと日本の[[武士道]]との共通性を見てとった。王侯貴族の子弟が通うイートンなどに対して、都会型中産知識階級の子弟が通う一中とはバックボーグラウが全く違うなか、所謂「[[ノーブレス・オブリージュ]]」の規律・精神を共通の教育の土台とすることを目指していた。
 
のち、1932年(昭和7年)まで府立一中校長を務め、また自ら設立に動いた[[旧制東京府立高等学校]](のちの[[東京都立大学]]、現・[[首都大学東京]])初代校長も兼務した。