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m →‎参考文献: 『蜻蛉日記紀行解』 田中大秀
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'''蜻蛉日記'''('''かげろうにっき'''/かげろうのにっき/かげろうにき)は、平安時代の女流日記。作者は[[藤原道綱母]]である。[[天暦]]8年([[954年]])-[[天延]]2年([[974年]])のできごとが書かれ、成立は[[天延]]3年([[975年]])ごろか。上中下の三巻よりなる。題名は日記のなかの文「''なほものはかなきを思へば、あるかなきかの心ちするかげろふの日記といふべし''」より。
 
夫である[[藤原兼家]]との結婚生活や、兼家のもうひとりの妻である時姫([[藤原道長]]の母)との競争、夫に次々とできる妻妾のことが書かれ、また唐崎祓、石山詣、長谷詣などの旅先でのできごと、上流貴族との交際、さらに母の死による孤独、息子[[藤原道綱]]の成長結婚、兼家の旧妻である源兼忠女の娘を引き取った養女の結婚話とその破談についての記事がある。
 
[[藤原道綱母]]の没年より約二十年前、三十九歳の大晦日を最後に筆が途絶えている。
 
歌人との交流についても書かれており、掲載の[[和歌]]は261首。なかでも「''なげきつつひとりぬる夜のあくるまはいかに久しきものとかは知る''」は[[百人一首]]にとられている。女流日記のさきがけとされ、『[[源氏物語]]』はじめ多くの文学に影響を与えた。