「コルネリス・ブルーマールト」の版間の差分

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父親から学び、ユトレヒトで活動していた画家の[[ヘラルト・ファン・ホントホルスト]]からも絵を学んだ<ref name=rkd>[https://rkd.nl/explore/artists/9122 Rijksbureau voor Kunsthistorische Documentatie]</ref>。その後版画家のクリスペイン・ファン・デ・パッセ(Crispijn (van) de Passe : c.1564-1637)から版画を学んだ<ref name=larousse>[http://www.larousse.fr/encyclopedie/peinture/Bloemaert/151172 Enciclopedia online Larousse]</ref><ref name=treccani>[http://www.treccani.it/enciclopedia/bloemaert/ Enciclopedia online Treccani]</ref>。版画家として知られるようになり、1630年から1633年の間、[[パリ]]に移り、収集家のミシェル・ド・マロレス(Michel de Marolles: 1600-1681)が出版した復刻版画集「Tableaux du temple des muses tirez du cabinet de feu Mr Favereau」のための版画復刻の仕事をした<ref name=nnbw/>。
 
1633年に<ref name=rkd/>[[ヨアヒム・フォン・ザンドラルト]](1606-1688)に推薦を受けて、[[ローマ]]の銀行家で美術収集家のヴィンチェンツォ・ジュスティニアーニ(Vincenzo Giustiniani: 1564–1637)に招かれて、ローマに移った<ref name=nnbw/>。ローマではヨアヒム・フォン・ザンドラルトの指揮下でジミニャーニ家の美術品の図入り目録作成のため働いた。[[ピエトロ・ダ・コルトーナ]](1596-1669)の指示で働き、コルトーナや[[ドメニキーノ]]、チーロ・フェリ(Ciro Ferri)、ジャチント・ジミニャーニ(Giacinto Gimignani)といった画家の作品や、ジュスティニアーニが所有するヨアヒム・フォン・ザンドラルトの素描をもとに版画を制作した。
 
レイニール・ファン・ペルセイン(Reinier van Persijn: 1615-1668)や[[テオドール・マータム]](Theodor Matham: c.1605-1606)といった版画家とも一緒に働いた。一時的にフィレンツェで働くこともあったが、亡くなるまでローマで働いた<ref name=nnbw/>.。