「ヨランド・ド・クルトネー」の版間の差分

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== 生涯 ==
ヨランドは[[ピエール2世・ド・クルトネー]]と、2人目の妻の{{仮リンク|ヨランド・ド・フランドル|en|Yolanda of Flanders}}([[ラテン帝国]][[ラテン皇帝一覧|ラテン皇帝]][[ボードゥアン1世 (ラテン皇帝)|ボードゥアン1世]]と[[アンリ・ド・エノー1世 (ラテン皇帝)|アンリ1世]]の姉妹)の娘。ヨランドのアンドラーシュ2世との結婚は、アンドラーシュ2世の最初の妻[[ゲルトルート・フォン・アンデクス|ゲルトルート]]が[[1213年]]9月28日に[[暗殺]]された後に、叔父の皇帝アンリ1世によって手配された。
 
2人の結婚式は[[1215年]]2月に[[セーケシュフェヘールヴァール]]で行われ、[[エステルゴム]]大司教のヤーノシュが彼女の王妃としての戴冠を執り行った。しかし、ハンガリーの王妃の戴冠式は伝統的に[[ヴェスプレーム]]大司教の特権であったため、ヴェスプレームのローベルト大司教は[[教皇]][[インノケンティウス3世 (ローマ教皇)|インノケンティウス3世]]に訴えた。教皇は調査のためにハンガリーに教皇特使を送り、ヴェスプレーム大司教の特権を認めた。
 
[[1216年]]7月11日に叔父アンリ1世が亡くなった後、アンドラーシュ2世は自身が皇帝位に就くことを計画していたが、ラテン帝国の男爵達はヨランドの父ピエールを皇帝と宣言した。
 
ヨランドはアンドラーシュ2世の前妻の子ども達と良好な関係だった。ヨランドはアンドラーシュ2世よりも先に亡くなり、[[シトー会]]のイグリシュ修道院に埋葬された。