「高橋徹 (レーサー)」の版間の差分

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[[1981年]]には[[ハヤシレーシング]]にメンテナンスを依頼し、FL550と平行して[[FJ1600]]の鈴鹿シリーズにも参戦。FL550シリーズ3位、鈴鹿FJ1600シリーズ9位、西日本FJ1600シリーズ5位の戦績を残す
 
[[1982年]]、FJ1600に乗る傍ら、[[フォーミュラ3]]にもハヤシレーシングからマシンレンタルと言う形で参戦。チームメイトであった[[鈴木亜久里]]を上回る成績を残す。同年12月には[[生沢徹]]率いるレーシングチームi&iの[[富士スピードウェイ]]での[[富士GCグランドチャンピオンシリーズ|GC]]車テストに参加、同じくテストに参加していた[[鈴木利男]]が同年3月に起こしたクラッシュした事により本調子ではなかったこともあるが、それを上回るタイムを叩き出す。そのことが生沢と懇意にしていた[[ヒーローズレーシング]]の[[田中弘]]の耳にも届き、後に契約。当初は[[星野一義]]との2人体制で[[1983年]]シーズンを戦う予定だったが[[星野一義]]がヒーローズレーシングを電撃離脱し[[ホシノインパル]]を設立、ナンバーワンドライバーを失ったヒーローズレーシングは急遽高橋徹をエースドライバーとして擁立することとなった。
 
[[1983年]]、ヒーローズレーシングからF2とGCの全シリーズに参戦することになったが全日本F2選手権第1戦でいきなり2位に着け、一躍有力ドライバーの仲間入りをする。5月の全日本F2選手権第4戦「鈴鹿J.P.Sトロフィーレース」に於いては予選でポールポジションを奪取。決勝3位の成績を残す。