「斎藤昌三 (古書研究家)」の版間の差分

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[[神奈川県]][[高座郡]]座間村(現・[[座間市]])に商人の子として生まれ、政三と名づけられるが、[[関東大震災]]後「昌三」と改名{{Sfnm|川村|2017|1p=14|八木|2006|2pp=15-16}}。
 
神奈川県立第三中学校(現・[[神奈川県立厚木高等学校]])を1905年に中退、横浜の生糸商原合名会社に勤務{{Sfn|八木|2006|pp=16-17}}。銀行訪問が主な業務で、銀行に勤めていた[[小島烏水]][[礒萍水]]・[[山崎紫紅]]と知る。句会にもよく出るりあうきっかけとなった{{Sfnm|川村|2017|1pp=19-23|八木|2006|2p=17}}。1910年頃勤務をやめ職を転々とし、1915年同人誌『樹海』を創刊、以後多くの雑誌を出す。また『明治文藝側面鈔』を密かに刊行し、発禁となった小説類を紹介する{{Sfn|八木|2006|pp=21-24}}。
 
古書研究にも熱心で、[[加山道之助]]と1920年趣味誌『おいら』を創刊{{Sfn|川村|2017|p=42}}、[[三田平凡寺]]らの趣味人と多く交友する。1923年関東大震災で多くの資料財産を失い、茅ヶ崎に移住した{{Sfnm|川村|2017|1pp=92-94|八木|2006|2p=59}}。1924年頃には『我楽他宗』から脱退しており、以後雑誌『いもづる』を出す。[[梅原北明]]と親しくなりその企画になる「変態十二史」のうち二冊を執筆{{Sfnm|川村|2017|1pp=166-170|八木|2006|2pp=80-82}}。1925年『愛書趣味』を創刊。[[柳田泉]]、[[木村毅]]らと明治文学の研究に手を染め、のち改造社から『日本文学大年表』を刊行する。