「岡重政」の版間の差分

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[[若狭国]]の[[守護大名]]であった[[武田信豊 (若狭武田氏)|武田信豊]]の曾孫であると伝わる。一方、『蒲生家系図由緒書』には伊勢出身で、元々「片岡」と称していたと伝えられている。また、『[[徳川実紀]]』には「長野半兵衛重政」の名前で登場しており、[[伊勢長野氏]]の関係者であった可能性もある<ref name=oshita217>尾下(谷)、2021年、P217-218.</ref>。
 
『氏郷記』によばれ天正12年([[1584年]])に17歳で兄の儀太夫と共に[[蒲生氏郷]]に小姓として仕え<ref name=oshita217/>、[[文禄]]4年([[1595年]])に氏郷が死去するとその嫡子の[[蒲生秀行 (侍従)|秀行]]に仕えたが、[[蒲生騒動]]により秀行改易されると大幅な禄高の減少で多くの家臣が蒲生家を離れ、重政も岳父石田三成と親しかった[[直江兼続]]の誘いで[[上杉景勝]]に仕えた。
 
[[関ヶ原の戦い]]の際、東軍に属した秀行は景勝に仕えていた蒲生家旧臣たちへ味方につくよう調略の手紙を送ったが、この時重政は「氏郷公や秀行公から受けた恩を忘れたことはないが、その後自分を拾ってくれた景勝公にも深い恩があるため、自分たちはそれを忘れて裏切ることはできない」という情理を尽くした返書を送り、秀行を感動させた。