「WD シュレッパー」の版間の差分

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1920年代は、戦車の機動性向上の試みの一つとして、装輪装軌併用式戦車(コンバーチブルドライブ車)の開発が、欧米各国で流行した時代でもあった。[[ヴェルサイユ条約]]により、戦車の開発を禁じられたドイツでは、多くの戦車技術者が職に就けなくなり、他国へと渡った。[[ヨーゼフ・フォルマー]]もその一人であった。
 
戦車の機動性向上に関心のあった彼は、戦後、[[チェコスロバキア]]へと渡り、1924年にハノマーク社製「WD 50」牽引車を基に、「KH-50 装輪装軌併用式戦車」を開発した。チェコスロバキアは、「WD 50」のライセンス生産を、1923年から開始していた。これら一連の装輪装軌併用式戦車を、チェコスロバキア語では「コロホウセンカ」と呼ぶ。「コロ」は車輪、「ホウセンカ」は履帯を意味する
 
「WD 50」のエンジンを後方に、操縦席を前方に、移設し、装輪走行に移行するには、木製のスロープ上に本車を乗り上げて、地面から浮かせた後、シャーシの両側面に、片面2つずつ、計4つの車輪を手で取り付ける方式であった。
 
1番目のプロトタイプは駆動系の実験用で、2番目のプロトタイプから武装を施され、本格的な戦車となった。武装は、シュコダ 37 mm 戦車砲を1門、もしくは、[[シュワルツローゼ重機関銃|シュワルツローゼ vz.24 重機関銃]]を2挺、を搭載することができた。装輪時の速度は35 km/hで、装軌時の速度は15 km/hであった。これらは決して高速ではなく、これはベースとなった牽引車のエンジン出力の不足からくるものであった。解決策はエンジン出力を向上させることであった。
 
1927年、エンジン出力を60馬力に向上させた、改良型の「KH-60 装輪装軌併用式戦車」が開発された。シャーシも車体上部も砲塔も再設計された。これにより、装輪時の速度は45 km/hに、装軌時の速度は18 km/hに、向上した。武装は、シュコダ 37 mm 歩兵砲を1門、もしくは、[[シュワルツローゼ重機関銃|シュワルツローゼ vz.24 重機関銃]]を2挺、を装備した。
 
1929年、最後の改良型である「KH-70 装輪装軌併用式戦車」が開発された。エンジン出力は70馬力で、装輪時の最高速度は60 km/hまで向上した。武装は旋回砲塔にヴィッカース 47 mm砲を装備した。
 
これら一連の装輪装軌併用式戦車を、[[チェコ・スロバキア語]]では「コロホウセンカ」と呼ぶ。「コロ」は車輪、「ホウセンカ」は履帯を意味する。
 
結局、装輪装軌併用式戦車(コンバーチブルドライブ車)の試みは、戦車の重量増大とともに、実用的ではなくなり、廃れていった。