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1919年の夏、匡互生は北京高等師範学校を卒業し、長沙に戻って楚怡小学校で教えた。当時の湖南省はでは、軍閥を倒すための駆張運動が行われていた。[[毛沢東|毛沢東と共に駆張運動の宣言を起草した。]] 1920年、匡互生はコナン第一師範学校の教務学長を務め、毛沢東を教員として破格に採用した。彼はまた、[[毛沢東|毛沢東らと共に]]湖南学生自治会と労働組合を組織した{{R|fh}}。
 
1921年、政治活動から離れて、日本の「新しき村」運動から影響を受け、江蘇省の宜興市の田舎で平民学校を設立した。学校を運営する経費が足りないため、1923年に閉校。
 
1924年、匡互生は[[浙江省]][[上虞区|の]]春暉中学校に転勤したが、教育理念改革という主張のため学校内の守旧派と対立し、のち辞任した。1925年、教育改革を目指す匡互生は、[[上海市|豊子愷、朱光潜ら同人とともに、上海で「立達中学」を創立し、のち「立達学園」と改名。]]「立達」は『論語』の「己欲立而立人,己欲達而達人」による。匡の教育理念では、教育者の責任は、教育を受けた人々に主体性を発揮し、自由に成長させることである。また彼は、学校は教育の工場ではなく、教育者は園芸家のように、「害虫を取り除き、肥料を与え、自然の環境の中で花を自主的に成長させる」べきだという教育理念を唱えている。そのため、立達中学は「立達学園」と改名された。