「トニー・アレン (ミュージシャン)」の版間の差分

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[[アート・ブレイキー]]や[[マックス・ローチ]]等のジャズ・ドラマーに影響され、ドラムを演奏するようになる。1964年にフェラ・クティのバンドのオーディションに受かり、彼とともに活動するようになる。1965年にはクーラ・ロビトスを結成し、[[ハイライフ]]と[[ジャズ]]が混ざり合った音楽を演奏していた。当初は複雑な音楽をやっていたが、聴衆には理解されず、アメリカのツアーを通じ、アメリカの[[ファンク]]の影響を受けた、踊りやすいシンプルなものに変わっていった。
 
アメリカに滞在中、[[ブラック・パンサー]]{{要曖昧さ回避|date=2022年4月}}のメンバーである、黒人女性のサンドラ・イジドールから政治活動の影響をけ、これが音楽に結びつくようになる。
 
ラゴスに戻るとクティはアフリカ70を結成する。このバンドのアルバムにアレンは全て参加。在籍中、クティのプロデュースで''Jealousy''(1975), ''Progress''(1976), ''No Accommodition for Lagos''(1978)を制作した。1980年代になるとクティの元を離れ、『トニー・アレン・アンド・アフロ・メッセンジャーズ』を結成し、''No Discrimination''を制作。1984年にイギリスに1年半滞在し、その後は[[フランス]]の[[パリ]]に移り住む。