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'''斡啜'''(オジュ、生年不詳 - [[皇統 (金)|皇統]]8年([[1148年]]))は、[[金 (王朝)|金]]の[[皇族]]。女真名は'''兀朮'''(ウジュ)・'''烏珠'''(ウジュ)とも<ref name="naitoh189">[[#内藤|内藤(2015)pp.189-191]]</ref>。漢名は'''宗弼'''<ref name="naitoh189" />。初代[[皇帝]]の太祖[[阿骨打]](アクダ)の四男。
 
== 生涯 ==
元妃烏古論氏の子として生まれた。[[1125年]]に叔父の太宗[[呉乞買]](ウキマイ)に従い、従兄の[[粘没喝]](ネメガ、宗翰)と共に[[北宋]]の都の[[開封府|開封]]に攻め寄せて、[[徽宗]]・[[欽宗]]父子をはじめとして、北宋の皇族・大臣らを捕虜として北方に連行した。
 
やがて、[[江南]]に逃れた康王[[高宗 (宋)|趙構]](高宗)が南宋を建国した。オジュは叔父の太宗の厳命で、[[長江]]を越えて追撃するが、深入りしすぎて引き揚げに苦労し、鎮江と揚州のあいだで宋将の[[韓世忠]]らの軍勢に退した<ref name="naitoh189" />{{refnest|group="注釈"|1130年の{{仮リンク|黄天蕩の戦い|zh|黄天荡之戰}}は有名で、韓世忠はオジュの渡河の道を常に遮って彼を難儀せた<ref name="naitoh189" />。オジュは、漢人に教えらて韓世忠の船を焼き、ようやく難を逃れて帰還がかなっ<ref name="naitoh189" />。}}。[[天会 (金)|天会]]8年([[1130年]])、[[訛里朶]](宗輔)の陝西平定戦に従軍するも、張浚の前に大敗する{{refnest|group="注釈"|この頃は宋軍がかつてのような弱軍ではなく、強くなっていたので金人は以降、漢人をあまり軽侮することはなくなった<ref name="naitoh189" />。}}。天会9年([[1131年]])、再び陝西攻略の作戦を起こし、これを攻略。天会15年([[1137年]])、甥の3代[[熙宗 (金)|熙宗]]ホラにより、今までの功績で瀋王・右副元帥に封じられ。これによって、彼は金の軍事権を全面的に握った。[[天眷]]元年([[1138年]])、再び南宋に遠征し、[[岳飛]]・[[韓世忠]]等と接敵しそうになるが、酷暑により両者軍を退いた。その後も、引き続き[[元帥|都元帥]]・[[太保]]・領行台尚書省を歴任した。やがて政治家としての能力を認められて、[[尚書令|尚書]]・[[丞相|左丞相]]・[[侍中]]に昇進し、異母兄の[[斡本]](オベン、宗幹)と共に金の頂点として君臨した。天眷3年([[1140年]])、再度南宋に遠征し、今度は河南南部を奪回した。
 
[[皇統 (金)|皇統]]8年([[1148年]])に死去。熙宗によって、亡兄の斡本と同様に'''忠烈王'''の[[諡号]]を贈られ、'''梁王'''に昇格した。
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* 完顔習撚
その他、多数
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=注釈}}
=== 出典 ===
{{reflist}}
 
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=内藤湖南|authorlink=内藤湖南|year=2015|month=7|title=中国近世史|series=岩波文庫|publisher=岩波書店|isbn=978-4-00-381171-9|ref=内藤}}
 
== 関連項目 ==
* [[靖康の変]]
* [[宋金戦争]]
 
{{DEFAULTSORTデフォルトソート:おしゆ}}
[[Category:金の皇族]]
[[Category:阿骨打の子女]]