「アッシュル・ダン3世」の版間の差分

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== 来歴 ==
[[アダド・ニラリ3世]]の息子として生まれ、兄王[[シャルマネセル4世]]の後を継いでアッシリア王となった彼の治世は、アッシリアの王政にとって厳しい時代だった<ref>Rowton, M.B. (1970). [https://books.google.com.au/books?id=7SOL7ypj7bAC&printsec=frontcover&redir_esc=y#PPA202,M1  The Cambridge Ancient History]. 1.1. [[Cambridge University Press]]. pp. 202–204. {{ISBNISBN2|0521070511}}.<br>(『ケンブリッジ古代史 第1巻第1部』(編:イオルワース・エイドン・ステファン・エドワーズ、C・J・ガッド」ほか、1970年、ケンブリッジ大学出版)p.202-204に収録されている『年代記』(著:ロートン・M・B))</ref><ref>[http://www.ancientmesopotamia.org/people/ashur-dan-III.php  Ashur-Dan III] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20190213183549/https://www.ancientmesopotamia.org/people/ashur-dan-III.php |date=2019-02-13 }}.<br>(『アッシュル・ダン3世』(ウェブサイト『古代メソポタミア』)中の記事)</ref>。前王時代より引き続いて将軍<ref>[[タルタン]]。「総司令」または「首相」に相当する語。アッシリア軍の本来の総司令は王なのでナンバーツーに相当する地位だが、このときのように役職者の威信が高くなりすぎると王権が圧迫される場合もあった。</ref>[[シャムシ・イル]]が大きな勢力を振るっており、また宦官の勢力も依然として強力であったため、彼自身の権力はかなり制限されたと考えられる。王権が弱く地方長官の自立傾向が目立った時代であったため、大きな業績は無いが、[[歴史的シリア|シリア]]への遠征や反乱の鎮圧の記録が残っている。
 
[[リンム]]の年誌によれば、紀元前765年、アッシリアを疫病が襲った。このため、翌年の記録では「王は国に留まる」と記述され軍事遠征は行われなかった。通例、アッシリア王は毎年のように遠征を行っており、この言葉は記録の残る紀元前858年から紀元前699年までの間で15回しか使われていない<ref name="limmu"/>。紀元前763年にリッビ・アリで反乱が起こり、さらに[[アラプハ]]や[[テル・ハラフ|グザナ]]でも反乱が起き、紀元前759年まで混乱が続いた。紀元前759年にはもう一度疫病が起きた<ref>Budge, Annals Of The Kings Of Assyria (Routledge, 2013) p154.<br>(『アッシリア王たちの年代記』(著:ウォーリス・バッジ、2013年、ラウトリッジ出版(英国))p.154より)</ref><ref>E. A. Wallis Budge, Annals Of The Kings Of Assyria: The Cuneiform Texts With Translations, Transliterations From The Original Documents (Routledge, 30 Apr. 2007) p94.<br>(『アッシリア王たちの年代記:楔形文字文書の翻訳文と、オリジナルの楔形文字文書』((著:ウォーリス・バッジ、2007年、ラウトリッジ出版(英国))p.94より)</ref>。紀元前758年にグザナへの遠征が行われてようやく平和が回復され、その後、2年連続で「王は国に留まる」と記述されている<ref name="limmu"/>。国力もしくは王個人の疲弊が窺われる。