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'''山崎 種二'''('''やまざき たねじ'''、男性、[[1893年]][[12月8日]] - [[1983年]][[8月10日]])は、日本の[[相場師]][[実業家]]・[[教育家]]。山種証券(現[[SMBCフレンド証券]])、株式会社ヤマタネの創業者であり、米相場と株式相場において成功を収める。
 
[[1920年代]]から米相場に手を染め始め、[[石井定七]]や[[伊藤ハンニ]]を向こうに回して成功を収めた。専ら売り方に専念し、米相場において「売りの山種」として有名だった。[[1939年]]に米穀配給統制法によって米穀商品取引所が廃止されるまで株式相場において「売りの山種」として有名であった転進[[1944年]]には山崎証券を創業し、株式相場買い方回って「買の山種」としもでを収めた。
 
横山大観、速水御舟などの近代日本画の収集家としても著名で、1966年山種美術館を創設しました。
 
近代画を選んだのは「」という相場師山種らしい理由です。
 
1983年逝去。山種グループは「証券グループ
 
[[横山大観]]と親交があるなど近代日本画の収集家でもあり、現代日本画専門の[[山種美術館]]を設立している。ちなみに近代日本画を収集の対象にしたのは「贋作をつかまされる心配が少なく、値上がりの可能性も高い」というのは理由だったと言われている。また[[本間丈介]]が運営していた[山崎学園富士見高等学校|富士見高等女学校]]の運営を引き継ぎ、後に[[城北中学校・高等学校]]を開校することになる[[深井鑑一郎]]を校長に招請するなど教育家としての一面もある。
 
また、近代日本画の収集家でもあり[[横山大観]]と親交があった。晩年には現代日本画専門の[[山種美術館]]を設立した。
 
*[[1893年]] 群馬県に生まれる。