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'''山崎 種二'''('''やまざき たねじ'''
[[1920年代]]から米相場に手を染め始め、[[石井定七]]や[[伊藤ハンニ]]を向こうに回して成功を収めた。専ら売り方に専念し、米相場において「売りの山種」として有名だった。[[1939年]]に米穀配給統制法によって米穀商品取引所が廃止される
横山大観、速水御舟などの近代日本画の収集家としても著名で、1966年山種美術館を創設しました。
近代画を選んだのは「」という相場師山種らしい理由です。
1983年逝去。山種グループは「証券グループ
。
[[横山大観]]と親交があるなど近代日本画の収集家でもあり、現代日本画専門の[[山種美術館]]を設立している。ちなみに近代日本画を収集の対象にしたのは「贋作をつかまされる心配が少なく、値上がりの可能性も高い」というのは理由だったと言われている。また[[本間丈介]]が運営していた[山崎学園富士見高等学校|富士見高等女学校]]の運営を引き継ぎ、後に[[城北中学校・高等学校]]を開校することになる[[深井鑑一郎]]を校長に招請するなど教育家としての一面もある。
*[[1893年]] 群馬県に生まれる。
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