「藤原高子」の版間の差分

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しかし、時の権力者で同母兄である[[摂政]]藤原基経や、異母姉でかつ[[宇多天皇|源定省]](のちの宇多天皇)の養母だった尚侍[[藤原淑子]]と高子は折り合いが悪かった。[[在原文子]](清和の[[更衣 (後宮)|更衣]])の重用を含めた高子側の基経を軽視する諸行動が、基経をして後に外戚関係を放棄をしてまでも高子・陽成天皇母子を排除させるに至ったとの見方もある<ref>瀧波貞子「陽成天皇廃位の真相」(朧谷壽・山中章 編『平安京とその時代』([[思文閣|思文閣出版]]、2009年 ISBN 978-4-7842-1497-6)所収)</ref>。ただし、在原文子を更衣としてその間に皇子女を儲けたのは清和天皇自身である。高子が清和天皇との間に貞明親王(陽成天皇)・[[貞保親王]]・[[敦子内親王]]を儲けたにもかかわらず、清和は氏姓を問わず数多の女性を入内させ多くの皇子を儲けていたことから、基経も母方の出自が高くない娘[[藤原頼子|頼子]]を入内させ、さらに同じく出自の低い[[藤原佳珠子|佳珠子]]を入内させて自らの外孫の誕生を望んだために、高子の反発を招いたと見ることもできる。そこに藤原淑子の暗躍を見る説<ref>[[角田文衛]]の説</ref>もある。
 
元慶8年([[884年]])2月4日、陽成天皇は退位した。表向きの理由は、天皇が乳母子源益を撲殺して帝徳を欠いたということ。
 
こういった経緯もあり、陽成天皇が退位するに際し、高子の子であり陽成の弟である貞保親王は次の天皇として選ばれず、[[光孝天皇|時康親王]]([[光孝天皇]])が選ばれることになった。また、光孝天皇の容体が悪化した際にも貞保親王ではなく、次期天皇として[[宇多天皇|源定省]](宇多天皇)が選ばれることになった。一旦であろうとも皇籍離脱・臣籍降下していた皇子が天皇位に就くことは前例にない。